ほびっと村学校 2015-2019 

 カウンターカルチャー・アーカイブ
-私の青空-
 
 
 鶴田静さんは私にとっていつも 先を行くひと だった。ロンドンでの空き家占拠?から戻って「プラサード書店」で洋書をどんどん輸入した。「アマゾン」などない時代、みんながどれほど嬉しかったか。同時に「たべものや」で美味しい玄米料理を提供したり。さっと田舎暮らしを始め、ベジタリアンの視点で宮沢賢治を捉え直したり。今でこそベジや田舎暮らしも普及したが、本当に先駆者だったのだ。このシリーズ、久々の女のひとの登場です。優しい頑固もの、お楽しみに!(ゆ)

カウンターカルチャー・アーカイブ18・私の青空
鶴田静物語

7月20日(土)2:00~5:30pm


お話/鶴田静
聞き手/槙田きこり但人+桝田屋昭子


参加費/1500円 
★要予約 hobbit@ea.mbn.or.jp または 03-3332-1187

 私が「カウンターカルチャー」にエンカウンターしたのは1969年、東京・国分寺「ほら貝」にお茶を飲みに行ってから。当時の私は、赤坂の写真家個人事務所(TBS局の裏)でパート仕事をしていて、ちょっと派手な都会っ子だった。時同じくして、「ほら貝」とは駅の反対側の「ほんやら洞」を造る工事に乱入し、そのままメンバーに加わる。1年後の75年友人のいたロンドンに休暇を取って行ったが、そこでまたしても「カウンターカルチャー」の渦の中に入り込み、帰国したのは77年。そのまま西荻の「ほびっと村」と「たべものや」に入る。
 私が体験した初期の「カウンターカルチャー」と、その前後について画像と共にお話します。(静)


鶴田 静(つるたしずか) 
 東京生まれ。1975年よりロンドンに住み、ベジタリアンになる。帰国後79年『ロンドンの美しい町』(晶文社)でデビュー。『ベジタリアンのいきいきくっきんぐ』(NHK出版)、『宮沢賢治の菜食思想』(晶文社)、『サクラと小さな丘の生きものがたり』(ぷねうま舎)など著書多数。88年より、夫の写真家エドワード・レビンソンと共に房総半島の農村に住む。

 
  2019 カウンターカルチャー・アーカイブ17
浜田光(アパッチ)物語

 シリーズで最も若い人の登場です。あぱっちは私より少しだけ歳上。『名前のない新聞』が謄写ファクスで印刷していた裏表2ページの1973年に、私が企画した和光大学CAMP INNをトップ面で紹介してもらった。そして'75 MILKYWAY CARAVANのときは、企画の情宣のために編集部に入ることになった。それ以来ここホビット村で本の編集を共にし、88年と2000年のいのちの祭りでも新聞を共に作った。世代が近いだけでなく、多くの同じ空間を共に生きてきた。プライベートなことまで共有してきたが、出来るだけメディア作りのことに絞って話を聞こうと思う。 (きこり)








5月11日(土)2:00~6:00pm

話し手/浜田光(アパッチ)
聞き手/桝田屋昭子+槙田きこり但人

参加費/1500円
★要予約 tel 03-3332-1187 hobbit@ea.mbn.or.jp


ガリ版でスタートした第一期名前のない新聞(1972-1977)の、特に始めたころの思いや新聞と絡めてやったイベント、雑誌制作など。その後オフセット印刷になりキャラバンなどの動きに影響されながら新聞の役割をさぐり、エネルギー尽きて終わったこと。12年経ち、第二期開始のきっかけとなった88いのちの祭りやその後も祭りでの壁新聞を制作したこと。紙の新聞からウエブや動画に広がったことなど。また新聞で田舎暮らし特集を何度か組むうちに、自分の暮らしも都会から離島暮らしへと変わったことなど。そんなことを話す予定です。(アパッチ)



浜田光(アパッチ)
 学生時代、ベトナム反戦市民団体に参加してたころにガリ版で名前のない新聞をスタート。その第一期は5年、101号までで終了。12年たち、88いのちの祭りの会場で毎日壁新聞を作ったのがきっかけで第二期をスタート。現在に至る。

槙田きこり但人(まきたきこりただと)
 ホビット村からプラサード編集室が移動したことで、その部屋でプラサード書店を77年に開業。
現在は富士山の麓で暮らし、ビデオで祭りなどの動画を撮り公開している。
 
 
 初めて会うのは、1976年のアキとの結婚パーティーの時。80年代半ばに家族で茨城の玉造より長野大鹿村へ引っ越して来た。隠魂(おに)祭り、いのちの祭り2000、小さないのちの祭り、お山の上でどんじゃらホイ!など彼女が中心にいる場を共にしてきた。祭りだけでなく、関わりがある多くの話を聞きたい。(きこり)
お山の上でドンジャラほい!2016 photo by 佐藤秀明


2018 カウンターカルチャー・アーカイブ16 私の青空
大鹿 
田村寿満子物語

11月18日(日)2:00~5:00pm

田村寿満子+槙田きこり但人+桝田屋昭子

参加費/1500円 ★要予約 tel 03-3332-1187 hobbit@ea.mbn.or.jp

 私もこの12月でなんと70才の大台に乗ることになるので、この企画に参加することで半生を反省するには良いチャンスととらえています。頭でっかちで地に足がついていなかった10代20代だが、訳もわからずもがき苦しんでいたことが突破口を作るエネルギーにはなったんだと今は思う。体当たりで切り開いてきたつもりだが、そのつど良い出会いに助けられ、導かれ、結局はお釈迦様の手のひらの上だったー。だから若い人がヒリヒリするような寂しさを感じていたら、それはこれから来る素敵な仲間との出会いの喜びが倍増するためのステップになるよと言いたい。少し見方を変えたら、歴史だって全然違うものになるし、私は多数派より少数派に興味がわく。(田村寿満子)

田村寿満子(たむらすまこ)
 1948年北海道生まれ。仕事を辞めインドひとり旅4ヶ月。長野県大鹿村に34年暮らし、2つの祭りを主催。カウンターカルチャーとはなんぞや?と今も模索中。
 
  サワとじっくり初めて対面したのは、1980年頃ほびっと村学校に毎年山尾三省を呼んでの日記朗読会だった。サンセイのヒンドゥー教への想いに、サワが異議を唱えたのだった。サンセイの湿り気に対して、とても乾いた風を感じた。砂漠の人だと思った。その人から直接に話が聞ける。 (槇田きこり)






2018 カウンター・カルチャー・アーカイブ15 私の青空
澤村浩行(サワ)物語

4月1日(日)2:00~6:00pm



語り/澤村浩行(サワ)
聞き手/澤村恒美+槙田きこり但人+桝田屋昭子

★要予約 hobbit@ea.mbn.or.jp または tel 03-3332-1187


 76歳を目前として、ハタと気付いたことがある。この10数年間、体力は衰えたが精神は壮年期から青年期、少年期、幼年期を経て胎児期へと逆行する過程にあったと。今や胎児となる前に行く過程にとても関心がある。その故か、いまだに頻繁な旅の道や、その基点としている山口市郊外のヨットのキャビンみたいな六畳アパートの日常には、すでに踏み込んだ老年期も含めた全世代と片足に感じる未知の世代の織り成してきた「発見感動の波動」が入り交じって共振している。(サワ)




澤村浩行(さわむらひろゆき)
 1942 松本郊外に疎開した工場の木造仮設長屋群の一角に誕生。3ヶ月後ミッドウェー海戦敗北。1954 東京蒲田の零細工場群地帯の長屋に移住。第5福竜丸ビキニ水爆被曝に無情感、と同時に杉並の主婦たちの始めた反核署名国内三千万海外四億に感銘。1962 キューバミサイル危機に震撼、ブラジル移民試験に身体検査不合格。東京外大ポルトガル・ブラジル課入学。結果四年生で中退。1965 大学でのアフリカ人留学生支援活動と新宿のキャバレーで芸人のバックバンドにラストステージのみモダンジャズ二年間の御縁で終夜喫茶でアフリカ学を原書独学。アメリカのアジア財団奨学生試験に英語論文と面接合格。フランス郵船でジブチ上陸。ウガンダのマケレレ大学課外特別コース入学。後、運転手兼ガイドの仕事で東アフリカ十万北アフリカ七万キロ走る。1966 夏ヨーロッパに渡る。北欧からは66cc バイクで東欧経由イスタンブール10月、最安値のグルハネホテル屋上木箱長屋にビートニクと住む。多人種でんでんバラバラだけど半ベトナム戦、反核、自然回帰、金と面子社会からドロップアウト、旅とアートと精神性。初めて仲間に出逢った思い。カトマンズをめざす。陸路ほぼ無銭かしがない運び屋で。1967 僅かな数のみカトマンズ着。半年旅を伴としたオランダ人と別れ、ひとり寺男として廃屋生活。後、聖地モンキーテンプルのチベット寺で初めての修業。後、リチャード・アルバートからのLSD 初体験。1968 日本のカウンターカルチャーコミューンを訪れる旅。
 1969 インド8年イスラム圏7年ヨーロッパ5年、外に東南アジア中国オーストラリアアメリカなどの旅や仕事や家族生活や路上生活。1986 チェルノブイリ原発事故。イタリアトスカニアで被災。国中沸騰。国民投票で原発全廃するまで、初めての運動に参加。浜岡原発の危険性を彼らから指摘され、日本移住を考え始める。1989 ベルリンの壁撤去開始と天皇重体に激変を感じ、年末日本移住。以来反核熱帯雨林温帯原生林保護と人間的なコミュニケーションのために、選挙、広報、デモ、コミュニティーめぐり。2011 福島原発事故を機に山口市湯田温泉郊外に移住。

澤村恒美(さわむらつねみ)
 団塊世代の最後っ屁の1949年誕生。68歳。二十代は広告デザイン会社でサラリーマン。ある時、アフガニスタンのカブーからエアーメイルが届く。手紙の内容は「ここカブールにて日本人旅人によるグループ「Sindbat&Sons」を結成しました。あなたの参加を希望する。」だった。当時、私は広告に対して少しだけ罪悪感があった。辞めるタイミングを計っていた時にこのメッセージだった。三ヵ月後に私は退社した。私にしてみれば「ドロップアウト」だ。先ず「Sindbat&Sons」の第1弾はタブロイド紙二色刷りの新聞発行。この新聞は帰国したばっかりの斉藤司郎さんとイラストレーターの石丸忍と三人で制作した。第2弾は夏の軽井沢にてテントバザールを二ヵ月間オープン。200坪ほどの土地を無償でお借りし、スタッフや旅人が宿泊する山小屋風一軒家も無償でお借りした。私以外のメンバーは皆インド帰りの連中の為に実務交渉がまるっきし駄目。印刷屋も軽井沢も東京育ちの私が担当した。現在でもそうだが子供頃から憧れの兄だった。私が高校生の時、サワが東京オリンピック後に横浜港から貨物船でアフリカに出航した際に見送りに行って涙にくれた事を今でも覚えている。
 こんな私が4月1日に開催されるほびっと村学校のほびっと村学校「私の青空 澤村浩行(サワ)物語」に参加協力できることに感謝しています。実弟なので兄にインタビューをする事にいささか抵抗が有りますが私の青空運営スタッフの方々にフォローして頂きながら務めたいと思っています。
 
 カウンターカルチャー・アーカイブ14 ~~私の青空~~

南正人物語②

2018年1月8日(月・祭)2:00~6:00pm

語り/南正人
聞き手/槙田きこり但人+桝田屋昭子

参加費/1500円 
★要予約 tel 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp

 南正人物語、続編です。前回は80年代に入ったところまでだった。いのちの祭り'88 in 八ヶ岳ではコンサートの取りまとめを担ったので、このへんを軸に今年で9年目となるタイでのシャンパラ祭りへの流れを語ってもらおう。 (きこり)








 昭子さん(森と出版)が出してくれた伝記『KEEP ON!』に載せれないことや詳しい部分にさく時間を考えると、だいぶ先だな~とも思ったが、のってやってみれば、楽しくなるだろう。ファミリーヒストリイまで分け入ってみたい。 南正人 談 (文責 きこり)

 
 
 
 
 
 
 
 カウンターカルチャー・アーカイブ⑨

津村喬物語



12月17日(土)2:00~6:00pm

津村喬(話し手)

槙田きこり但人・桝田屋昭子(聞き手)


参加費/1500円
★要予約 TEL 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp


 津村喬さんとホビット村の縁は、1980年代の初めから90年代に、二階ほんやら洞で津村喬 料理の日を催し、学校では長年クラスとして太極拳や気功、座学を開いてきました。1968年の捉え返しなどで、津村さんは最近また脚光を浴びているよう。彼は早稲田大学全共闘の代表格の存在で、ビラや雑誌に沢山の文章を書いていました。当日聞きたいことは多方面。総評を作った父、江戸文化の風情を持つ母のこと。国交回復以前の中国大陸訪問。文章を書くこと、メディアを作ること。京料理から世界中の料理。東洋体育道。気功的生活、などなど。(きこり)

 私の事を全共闘で挫折して、気功だの料理だのに走ったと思っている人がいる。滑稽な思い違いだ。自分の弁当のために目玉焼きを作っていたのは幼稚園の事だった。エム・イリンやガモフの人類史や宇宙史やレーニン全集を全部読んでやれと思ったのは小学生の半ばの事だ。隅田十二橋や法隆寺のルポをしたのは小学校の終わりから中学の頃だった。高校一年の時に、中国で気功と太極拳を習った。少なくとも「気功や料理」は全共闘よりずっと早かったし、大人になってもずっと続いた。「全共闘」も挫折なんてものはなく、ずっと続いた。私の人生は子供の時から繰り返し出発点に戻って繰り返しそれを増幅して来た。薔薇窓型の人生。どこからでも始め直せ、どこでも終われる。(津村)










津村喬(つむらたかし)
 津村喬はペンネームの一つ。facebookは本名の高野威でしている。気功は大阪で毎週、京都では毎月、東京は隔月でしている。気功の中でも仙学・内丹に重点をおいている。最近は丹学研究会と幸田露伴を読む会をよびかけている。
 
 
カウンターカルチャー・アーカイブ⑧私の青空
川内シンヤ物語


10月30日(日)2:00~6:00pm


お話・歌?/川内シンヤ
聞き手/槙田きこり但人+桝田屋昭子

参加費/1500円 ★要予約 TEL 03-3332-1187  hobbit@ea.mbn.or.jp


 シンヤがホビット村に帰ってくる。このビルをホビット村として使うきっかけになったJam Houseの代表で、ホビット村初代村長のシンヤさんです。1960年代後半からのアクセサリー工房、面白い・珍しい・役に立つ雑貨店、店舗のアイデアと内装など、必要と楽しさを基本にやってきました。1972年からは、日本で初のライブハウス、伝説の吉祥寺OZのオーナーでもありました。今は茨城県笠間市に住み、ビーズアートのオブジェやアクセサリーを作りながら、なんと!!80代のロックン・ローラーとしても活躍してます。かっこよすぎのポップなヒッピー、“ポッピー”シンヤさん、お待ちかねの凱旋帰村トークです。トークだけで、済むはずがない!!















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 歌い手の内田ボブとともに詩を読みに毎年やって来る《春風めぐる》ツアーを終えて、トカラ列島の火山島・諏訪瀬島に還る直前のナーガに寄ってもらい、ナーガ自身のことを聞かせてもらいます。60年代後半の《部族》誕生前後のあたりを中心に喋ってもらいたいとボブに相談すれば、「ナーガ、話すかな?」と言う。本人も「昔話かい」と。いや、島の今日この頃までお願いします。(きこり)

カウンターカルチャー・アーカイブ⑦私の青空


ナーガ(長沢哲夫)物語

5月3日(火・祭)3:00~6:00pm

お話・詩/ナーガ(長沢哲夫)
聞き手/槙田きこり但人+桝田屋昭子
参加費/1500円 
★要予約 TEL 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp


 「土から生まれ土の上に何を立てるわけでもなく、ただ土と共にあり土に帰っていく社会、魂の呼吸そのものである愛と自由と智恵による一人一人の結びつきが支えている社会」
 50年ほど前、ぼくらが作った新聞「部族」にのせた「部族宣言」でその目ざすべき社会を、またその頃バム・アカデミア(乞食学会)と自称していたぼくらの自由勝手な集まりを「部族」と名付け、山の中や海辺の3,4か所にそのような社会を目ざし、共同で暮らすことを始めた。5、6年の内にどの集まりも消えていったけれど、それも自然のことだった。「ぼくらはあくまでも一人一人の自覚を主におく」と宣言に書いたようにこの文明社会に生活しながら心では自然の内にあって、一人一人このいのちを歩いているのだから。いつであれ、どこであれ、いっときいっとき自然と共にあり、ぼくら自身いつも自然であることを覚えながら。(ナーガ)




      「足は土の上に」

  車がわきを通りすぎていく

  二酸化炭素の漂う内を

  原発がわきに立つ

  放射能が行き交う内を

  足は土の上に

  目はしっかりと星をつかみ

  草木虫鳥たちと魚たち けものたちと一緒に歩いていく

  おしゃべり 笑い

  のどかに

  ゆっくりと

  歩いていく

  足は土の上に






       「風と暮らそう」

  つま先だちで 風の花びらを歩く

  風と暮らそう

  土と暮らそう

  海と暮らそう

  輪になって

  小さな輪になって

  地球の輪になって






        「シャガの花」

  山が散歩していました

  杉たちの林です

  シャガの花が道ばたに渦まいています

  陽の光がぼそっとやってきました

  山がぶらっと歩いています

  地球によりかかって笑っています




長沢哲夫(ナーガこと、ながさわてつお)
 1941年東京生まれ。高校1年で中退後、いろいろな仕事をしながら、日本中あちこち放浪、詩を書く。67年頃、旅仲間と共同体”部族”を信州山中や諏訪之瀬島に作り、家作り、畑開き、漁で暮らす。69年インド・ネパールを1年間ほど旅。72年頃から諏訪之瀬島での島暮し、漁を主に営み、今に至る(”部族”は75年頃に終る)。最近は、春風めぐるツアーとして、詩を詠む旅を、歌を歌う友だちと続けている。詩集に『つまづく地球』『足がある』など。
 
 
 おおえまさのりさんのことは、『チベット死者の書』をチベットの経本風に手作り製本で出したことで知り、《'75 ミルキーウェイ・キャラバン》の後半を担ってくれたとこで出会い、このビルでプラサード編集室をともに立ち上げた。ほびっと村学校では、いくつもの講座(《いちえんそう》《光ONEアートマン》《リトゥル・ガイアのCOSMIC SHOOL》)を開いていた。八ケ岳を仰ぐ地に居を移してからは、1988年の《いのちの祭り》で実行委員長を務めたことはよく知られているだろう。現在も、文筆、自然農法やコミュニティ活動をされている。これまでの多彩なシーンを語っていただき、その底流に流れているものを探ってみよう。(槇田きこり)

カウンターカルチャー・アーカイブ私の青空⑥




~花粉の中心を歩いてゆく


3月19日(土)2:00~6:00pm

お話+映画『GREAT SOCIETY』上映/おおえまさのり

聞き手/槙田きこり但人桝田屋昭子

参加費/1500円 
要予約 tel03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp



 9・11後の報復爆撃に世界が沸いていたとき、1967年にぼくがアメリカで制作した、60年代アメリカの社会的シーンを追った映画『Great Society』を上映する機会があった。映像を見ながら、新世紀へと向けてカウンターカルチャーが60年代から築き上げてきた意識と世界の変容、あれは何だったのだろうか、何も変わらなかったのだろうかという激しい思いがこみ上げてきた。そしてその後の15年の間に次々と絶たれてきた生命の潮流。わたしたちは大きな問いを突き付けられている。カウンターカルチャー・アーカイブスはノスタルジアではない。自らに向けられたその問を問うことこそが新たな世紀を拓いてゆけるのでは。キコリや桝田屋さんたちとの対話から開かれてくるものを楽しみにしています。(おおえ)


おおえまさのり
 65~69年にかけてニューヨークに渡り、サイケデリック・ムーブメントと出会う。その後インドを旅して『チベットの死者の書』を世に問う。いのちの祭りに関わり、現在八ヶ岳で自然農に関わりながら暮らす。

 
 
渡辺眸さんのひとみは何に向いているのかわからない。きっと写真を撮るときは、すでに写真の神さまがついている。撮れた写真は、そのときの対象、そのときの時間、そのときの風、見えないすべてがうつってる。この写真は、『東大全共闘1986-69』から。(ゆ)



安田講堂、1968年 渡辺眸

カウンターカルチャー・アーカイブ《私の青空》⑤
~旅の扉 渡辺眸物語~

2016年1月10日(日)2:00~6:00pm

ゲスト/渡辺眸
聞き手/槙田きこり但人+桝田屋昭子

参加費/1500円 ★要予約 tel 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp

 眸さんと最初に遭遇したのは、1976年4月にほびっと村学校の前身である《西荻フリースクール》を開始したときのパーティだった。誰が声をかけたのか。講師のひとりの吉福伸逸さんか、主催である《プラサード編集室》のメンバーだった山尾三省や星川淳、あぱっち? いや、おおえまさのりさん? それ以来、眸さんは度々来てくれたし、様々なイベントの場で顔を会わせることになった。

 お世話になったことでは、山尾三省の初めての単行本をプラサード書店で出版するときに、章扉に眸さんが屋久島で撮ったサンセイの写真を使わせてもらった。サル顔のサンセイの脇に屋久猿がたたずむ写真は見事だった。屋久島に移り住んで間もない彼を、眸さんは早くも訪ねているのであった。

 眸さんを訪ね彼女の故郷である北区の十条駅に降りたのは今度で二度目。初回は昨年春に十条富士塚のある富士神社を訪ねていた。眸さんの写真家デビューは、その富士神社の祭りで店を出していた香具師(テキヤ)に出会い、その写真が週刊『アサヒグラフ』誌で華々しく巻頭特集されたことだという。一連の《私の青空》シリーズと富士山信仰が初めて結びついた。

 話題になった写真集は多いが、今回十条の仕事場を訪れ書籍化されていない雑誌連載などが数多くあることが、確認できた。《テキヤの世界》《女優たち》《88いのちの祭り》《Global Friends》など、興味深い写真がたくさんあった。スライドショーをベースに写真のこと、見つめてきた世界を語っていただこう。(槙田きこり)
 (写真©佐藤秀明)

渡辺眸(わたなべひとみ)
 1968年、東京綜合写真専門学校卒業。60年代末にテキ屋、新宿、東大全共闘などその時代のバイブレーションを今も伝える写真を撮りまくる。70年代にはアジア各地を旅し、特にインドとネパールには魂の原郷を感じてしばらく滞在した。写真集に『天竺』『猿年紀』『ひらいて、LOTUS』『てつがくのさる』『東大全共闘1968-69』『1968新宿』など。「自分は過去を見ないタイプだから、この企画はありがたいな。整理の時季にきてるのかな、、」(眸談)
 
 
 
 このシリーズも4回目を迎える。普段はほびっと村学校で太極拳を教える大友さん。三鷹のミルキーウェイ(コミューン)には行ったことがあるが、その他は知らないことばかり。こういう先駆者がいたから、今があるし、また<これから>も生まれるということなんだな。(ゆ) 

カウンターカルチャー・アーカイブ 私の青空④

大友映男

~いのちに向かう生き方革命


11月8日(日)3:00~6:00pm

語り手/大友映男(トモ)
聞き手/槙田但人(キコリ)+桝田屋昭子
参加費/1500円
★要予約 TEL 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jpまで




 1970年7月、トモたちが主催する叛文化反戦祭で私はであい、石神井をベースにした彼らのグループに参加して以来の縁がある。トモはそれまでにも、フォークソング運動を通じて、山谷夏祭り、松竹芸能のヒッピーミュージカル《Hair》反対運動などを繰り広げていた。? 地域に根ざした運動と生活をしようと、石神井村運動を提唱し始めた。その共同体の根拠地となる家を手に入れるため、海の家《蟻巣亭》の運営をした。金は残らなかったが一軒家を借り、共同生活が始まった。各地のコミューンとの縁ができ、繋がりとしての《星の遊行群》が生まれ、そのイベントとして1975年に半年かけて沖縄から北海道に旅する《ミルキーウェ イ・キャラバン》を、全国各地のカウンターカルチャーのグループを巻き込んで行った。その翌年、このことが縁となり、ここホビット村がうまれたと言っても良いだろう。? トモはそのあとも、三鷹にミルキーウェイ・コミューンとやさい村を作った。根拠地だけでなく旅も続けた。《生存への行進》《北米インディアンのウォークとラン》など。内的な旅とともに続いている。(キコリ)

 70年安保の6月、学生と市民たちは国会を包囲したが、安保は自動延長、政治派は敗北した。しかしその頃僕等は政治一辺倒の運動は違うなと考えて砂川で<<叛文化反戦祭>>を開催した。生活丸抱えの生き方革命こそがこれから僕らが向かう新たな方向なのだと。折しも、世界中で若者たちがそれまでの古い体制に反旗をひるがえし、様々な実践が始まっていた。それは今日まで続いている。
 今、また安保法案をめぐって、その危険性に気づいた世代を超えた多くの人々が立ち上がり始めている。僕等はこれからどのような考え方で何処に向かおうとするのか? 根本的な社会のパラダイムシフトをかえなければならない時期にさしかかつているのではないでしようか?(大友映男)


トモ+キコリ@獏・満月祭2015.8  photos by 佐藤秀明

 
  日本ではとうとうフェミニズムは定着しなかった。だが、女性の体験はどれほど普遍性があるか、どれほど貴重なものか、先輩たちにあらためて聞きたいと思う。女神の版画を描き、核のない持続可能な社会作りを訴えてきた小田まゆみさん、伝説的なレストラン「たべものや」やオーガニック・コスメのプロデュースで社会と関わってきた川内たみさん。2日連続です。二人ともすてきすぎます!(ゆ)


カウンターカルチャー・アーカイブ②③ 私の青空
小田まゆみ  川内たみ
聞き手/桝田屋昭子+きこり(槙田但人)
+Koko Kawauchi Johnson (3日のみ)+田口結美子(4日のみ)
参加費/両日とも各1500円
★両日とも要予約 tel 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp






10月3日(土)3:00~6:00pm
小田まゆみ


~新しい地球の未来を築く鍵~
 70年代、アメリカから起こったオルタネイティブ・ムーブメントの中核となった仲間達と共に『ホール・アース・カタログ』の制作などに関わったり、アートの仕事と共に、核のない持続可能な社会作りをライフワークとしてきました。40年を経た今、日本はターニングポイントに立たされています。私たちが作り上げてきたネットワークや「分散型の循環する文化」へのシフトを今、社会の主流にすることが必要です。日本で育まれたオルタナティブ・コミュニティーを世界のネットワークに繋げ、新しい地球の未来を築く鍵を私たちが持っているという再確認をしに参ります。(小田まゆみ)



小田まゆみ(おだまゆみ)
 アーティスト、女神をモチーフに女性と自然とのつながりをテーマにした作品で知られる。著書『ガイアの園』『女神たち』『きままにやさしく いみなくうつくしく いきる』(現代思潮新社)など。平和運動家としても、新エネルギー推進運動を世界に訴えて来た。現在はハワイと奈良に拠点をもち活躍中。








10月4日(日)3:00~6:00pm
川内たみ

~自分自身にフィットして生きること~
 お正月早々体調を崩したので、1回目の私の会はキャンセルしてごめんなさい。311以降の日本の状況のなか、心身を元気に保っていくのは私にとって想像以上に大変だった気がします。長く生きてきたからこそ尚更こんな戦前みたいな時代がまた来るなんて思ってもみなかったから。76年にほびっと村を作った頃は未来はもっと明るいと思ってた。心底自由を希求していたので、60年代に知ったヒッピーという生き方には「やっと見つけた」という感じで共感したものです。でも、女として自由に生きるためにはその後も相変わらずの悪戦苦闘。女は女の役割を自らやったりやらされたりの現実があったし、宇宙的、精神的に自由になればOKみたいなものにもリアリティを感じなかった。今にいたるまで私は自分のいのちや感覚を抑えつけられることにNOと言い続けている気がする。(川内たみ)


川内たみ(かわうちたみ)
 二児の母をしながら、西荻窪で『ジャムハウス』を開店、その後『ホビット村』の立ち上げを経て77年、女たちが自立して自由に働ける『たべものや』を12年。その後ジュエリーを創りながら海外を放浪。95年から粘土やハーブでオルタナティブなボディケアを開発、提案。SORA代表。





きこり/槙田但人(まきたただと
 冨士山北口御師、 プラサード書店代表、 前・ほびっと村学校責任者。1970年代前半を中心にしたカウンターカルチャーのアーカイブ・プロジェクトを桝田屋昭子さんたちと追求中。

桝田屋昭子(ますだやあきこ)
 「森とつながるモノづくり」をテーマに『森と出版』を立ち上げ、出版・印刷・イベントの企画をしている。

Koko Kawauchi Johnson
 川内たみの娘として西荻で生まれる。結婚を機に渡米、イルカに導かれハワイ島に上陸。まゆみさんのジンジャーヒル・ファーム、カラパナ・ハワイアンの村おこし、サスティナブル・コミュニティのリーダーなどを生きている。

田口結美子(たぐちゆみこ)
 約9年間、オーガニック食材とエコ雑貨の小売卸業に携わってきた経歴と、2013年に千葉県長生郡に移住したことから、BOSO ORGANIC MAP準備中。でも、たみさんの家に通う時間が楽しすぎて、人生充実寄り道時間真っ最中。天然酵母パン屋勤務。



 
 
《私の青空(カウンターカルチャー・アーカイヴ)》 シリーズ 第一回

長本光男物語

5月31日(日)3:00~6:00pm

話し手/ナモこと長本光男
聞き手/きこりこと槙田但人+桝田屋昭子


参加費:1500円 ★要予約 tel 03-3332-1187 または hobbit@ea.mbn.or.jp まで。

 ホビット村を開いて40年近くになる。この時間が永いか短いかは関わってきた人たちの胸の内にある。始まるというのは終りが始まることでもある。

 私は振り返ることは好きではないが、私の体験が何かの役にたてればと思い、話をしましょう。永かった放浪時代、部族との出会い、そして八百屋。ナーガや亡くなった三省のことも、恥をかくことも悪くはない。たくさんの人との出会い、そしてその人の思いは永遠に続くと思っている。 

 世の中が全体主義的な感じだ。個々の多様性がなくなってしまったら面白くない。最近店(バルタザール)に法律学者たちが集まってくる。不思議だ。法の中に山の法と海の法と畑の法をしっかりと考えて欲しいものだ。こんな世の中で君の目の前に何がみえるのか また 私の目の前に何が見えるのか自問してみたい。(長本光男)


photo left/apachi
illust right/tadatsu

ナモこと長本光男(ながもとみつお)
 長本兄弟商会代表。1940年生。熊本の中学卒業後単身で上京、東京の高校に入学、新宿の喫茶店「風月堂」に出入りする。大学入学後間もなく中退。「部族」の仲間との十数年の旅、スナック「ほら貝」の運営を経て、1975年にトラック一台から無農薬野菜をあつかう八百屋「長本兄弟商会」を始める。翌年、西荻窪駅近くのビルを「ほびっと村」として誕生させ、一階に店舗を持つ。2001年には「ほびっと村」2階をカフェ・レストラン「BALTHAZAR(バルタザール)」としてリニューアルさせた。著書に『みんな八百屋になーれ』(1982・晶文社、品切れ)がある。

きこり/槙田但人(まきたただと)
 冨士山北口御師、 プラサード書店代表、 前ほびっと村学校責任者。1970年代前半を中心にしたカウンターカルチャーのアーカイブ・プロジェクトを桝田屋昭子さんたちと追求中。

桝田屋昭子(ますだやあきこ)
 森と出版を立ち上げ、ポン(山田塊也)の『アイ・アム・ヒッピー』の改訂新版を編集・出版する。




<シリーズ【私の青空(カウンターカルチャー・アーカイヴ)】について>
 年初めに予定した《川内たみ編》が延期になったので、今回がスタートとなる。伝説の人っていうわけではないが、よく顔を見かけるあの人の昔の話をちゃんと聞いたことがない。なかなか会えないあの人の話をゆっくり聞いてみたい。続いて大友映男(やさい村、正宗太極拳)、川内信也(JAM HOUSE創業者、初代村長)、小田まゆみ(アーティスト、ハワイ島在住)などを計画中です。もちろん川内たみさんも!(きこり)
 
 
   【!緊急!】 川内たみ物語 》の日程《2月7日(土)14:00~18:00》を無期限延期とします。

1月に予定していたこのイベント、肝心なたみさんの体調不良で2月に延期しましたが、たみさんの体調は少し良くなってきていますが、万全にはまだまだの状態が続いています。
無 理してできるかもしれませんが、もしかしたら当日開始時間になって延期だとか、始まってみたけど途中で終わらせることになるかもしれません。そんな状態で は、参加される皆さんにも、それ以上にたみさんの身体と精神にとてもマイナスなことになると判断し、延期させていただきます。
度重なる延期で大変申し訳ないことですが、どうかご理解ください。

なお、代わりの日程を決めた延期はもうやめにし、たみさんの体調が自他ともに良くなったと判断できたときに、改めて日程を検討いたします。

どうか、よろしくお願いいたします。

 



 2014年の春と秋に開いた《WE ARE HIPPY》と《ホビット村誕生秘話》で、何名かの人のホビット村誕生前後のことを聞いた。モット詳しく聞きたいということで、今回の川内たみさんに続いて大友映男(正宗太極拳)、長本光男(ナモ商会、バルタザール)、川内信也(JAM HOUSE創業者、初代村長)の各氏からも話を聞くことにした。季節ごとかな。(きこり)

         

 西荻窪の伝説的レストラン「たべものや」は楽しくて美味しかった。女のひとたちが自由にやっている感じが伝わってきたよ。川内たみさんは尊敬する先輩です。今はボディクレイやナイアードなど、オーガニックコスメをプロデュース。どういう働き方をしたら、自分も納得でき、社会にも良いかということを実践してきた人です。(ゆ)



 私の青空
 ~カウンターカルチャー・アーカイヴ①~
 川内たみ物語
 
 2015年2月7日(土)2:00~

 話/川内たみ
 聞き手/きこり こと 槙田但人
    +桝田屋昭子(『アイ・アム・ヒッピー』出版)
 参加費/2000円
 ★要予約 tel 03-3332-1187  hobbit@ea.mbn.or.jp

 「たべものや」もその前にやっていた「ジャムハウス」という<なんでもや?>も経済的には、やり続けられる最低ラインだったと思うけれど、あの頃の毎日は、楽しくて、刺激的だった。自分たちの売ってるものを通じて、思っていること、望んでいること、今の消費社会に対するアンチテーゼを表現できるから。それで、自分たちの食い扶持をなんとか確保できていたのだから、なかなかいい仕事だと思います。
 私自身は、社会性がなく、個人的なところからしか考えられないから、いまだに運動を一緒にやるみたいなのは苦手なのだけど、自分の仕事を通じてやってきたことは、けっこう社会的なことだったのかな、と思います。お店として、社会に顔を出しているわけだから、いやでも社会的な存在になりますね。ジャムハウスは75年のミルキーウェイ・キャラバン(沖縄から各地の拠点でワークショップやコンサートをしながら北海道まで行進するという平和行進)の拠点の一つとなり、その後の「ほびっと村」立ち上げにつながっていきます。(川内たみ)



川内たみ(かわうちたみ)
 61年セツモードセミナーをでてデザイナーに。結婚、2児をえて70年代初めに西荻に。ジャムハウス→ほびっと村、77年より「たべものや」を12年。その後ジュエリー作家をしながら海外を放浪。95年からねんどのスキンケア、ヘナ、ガスールなどの開発に関わり、現 SORA代表。




きこり/槙田但人(まきたただと)
 冨士山北口御師、 プラサード書店代表、 前 ほびっと村学校責任者。1970年代前半を中心にしたカウンターカルチャーのアーカイブ・プロジェクトを桝田屋昭子さんたちと追求中。



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