ほびっと村 資料 


 

「プラサード書店からナワプラサードへ」

 吉祥寺駅よりひとつ新宿側の西荻窪に「ほびっと村」というビル共同体があ る。その3階に「ほびっと村学校」があり、「プラサード書店」があった。村 が誕生したのは1976年。日本で初めてオーガニック野菜を専門に扱う八百屋と なるナモショーカイこと「長本兄弟商会」、店の内装からアクセサリーまで 作ってしまう「ジャムハウス」、ベ平連運動の流れをくむ喫茶店「ほんやら 洞」も入っていた。

 きっかけは前年の1975年、4月に沖縄を出発し10月には北海道まで到達した 「ミルキーウェイ・キャラバン」。日本中に散らばるコミューン運動に携わる 者やヒッピーによるムーブメントで、わたしは事務局をつとめていた。最後に 北海道藻琴山の「宇宙平和会議」で、全国的なネットワークと情報の共有化の 必要が確認された。その直後から、東京の中央線沿線で活動する様々なグルー プが毎月会合を持つようになり、ひとつのビルを共同で運営する企画が持ちこ まれた。最終的にビルの共同運営に残ったのは、上記の3事業体とプラサード 編集室だった。

 プラサード編集室は先の宇宙平和会議を受け、高度経済成長にまったく逆の 生き方を提案する本の編集出版をやろうと集まった8人のプロジェクト。わた し以外に、山尾三省、おおえまさのり、星川淳などが参加し、編集代表はフ リープレス『名前のない新聞』のあぱっちこと浜田光が務めた。宇宙や世界の 認識といった章もあったが、多くはエコロジー運動で探求した環境に負担のな い手作りの生活技術、共同体運動の生活で学んだ人間関係、フリースクール、 旅などの項目が並んだ「もうひとつの生き方のための百科全書」を目指し、複 数巻を計画した。当時北米で評判だった『The Whole Earth Catalog』の影響も 受けていた。本は数年後に『やさしいかくめい』というシリーズ名で2冊出版 することができた。

 編集の途中で経費節約のため編集室は移転し、9畳ほどの部屋が空いた。 せっかくのビル共同体であり、ほびっと村学校の前身である西荻フリースクー ルの運営も担当していたので、わたしが本屋を開くことにした。なぜ本屋か。 『やさしいかくめい』シリーズで本や情報をたくさん紹介するので、それらを いつでも手に取れ、最新情報を入手できるセンターが必要だと思ったからであ る。

 プラサード書店は1977年10月に開店したが、友人からもらった古本と3つの 出版社の本を並べただけ。手作りの本棚にほとんど本は並んでいなかった。出 版社と本屋を取り持つのは問屋ではなく取次店の配本という存在だ。本屋のレ ベルに応じて新刊が配本され、買取りではなく返品できる委託制度によって成 り立つ。こちらは好きな本や必要な情報のみを扱う店だ。今でいえばセレクト ショップ。だからどこの取次店とも契約はできなかった。店舗規模にあった保 証金も出せなかった訳だが。ではということで、置きたい本をたくさん出して いる出版社にお願いして、預からせてもらった。大手の出版社で相手をしてく れるところも少しはあった。中小出版社はおおむね好意的に対応してくれ、売 れたら支払うというだけの口約束で本を貸してくれた。欲しい本を出している 出版社全てにお願いする訳にもいかないので、複数の取次店の倉庫で調達した り注文を出させてもらった。もちろん個人の自主出版物やミニコミなどの取り 扱いは優遇した。開店して半年で棚全体に本は並び、1年したころにはインド の出版社や北米西海岸のバークレイにあったカウンターカルチャー系から大出 版社まで扱う書籍問屋からも取り寄せることができるようになった。  自然食・有機農業・ヨガ・太極拳・瞑想・東洋哲学など、村やほびっと村学 校などに縁があるテーマのものがよく売れた。キャッチフレーズは「百姓の本 屋」。棚は[産む][育てる][癒す][耕す]などという動詞のコーナー名にして、 文庫本も大型本も一緒くたに並べた。

 「精神世界」というジャンルがある。雑誌『The Meditation』のキャンペー ンで、このキーワードが開店直後から評判になった。吉福伸逸さんらのc+Fコ ミュニケーションズが執筆した同誌や『別冊宝島』での精神世界の本特集があ り、タイアップしたブックフェアと通信販売で、広く店は知られるようになっ てきた。海外からの書籍輸入販売は、どの店より安く売っても利益は大きかっ た。瞑想音楽やヒーリングミュージックのメディアも輸入をした。開店2年後 には、売り場面積当たりの売り上げ額が日本一の本屋だと業界で言われた。単 位面積当りは高いかもしれないが、たった4坪の店を3〜4人で運営してい た。それでも店はなんとかやっていけて、スタッフもどうにか食べられるよう になった。

 c+Fが参加していた新宿のスタジオALTAの開設企画で吉福さんに、「新宿に プラサード書店の支店を作ろう」と言われたが、セレクトショップに支店や チェーン店は似合わないと断った。代わりにスタッフに独立を勧め、木風舎と いう山と自然をテーマにした本屋が誕生した。ほかにも独自のテーマで本屋を 開きたいという声があれば支援し、何件かが開業した。

 1981年には山尾三省の最初の著作『聖老人』の企画・編集から発行までを、 プラサード書店ですることができた。編集室・八百屋時代までのサンセイは、 一般誌では『思想の科学』に数度執筆していたほどだった。プラサードの名付 け親であり編集室やほびっと村創設メンバーだったが、開村半年で屋久島に移 住した彼の書き溜めたものをなんとか世に出したかった。本屋と学校の運営の 片手間だったが、その後もプラサード書店から2冊の本を出版した。3冊目の 『No Nukes One Love』は「いのちの祭り'88」の報告集であったが、貯えた金 の全てだけではなく借金まで作って出してしまった。DTP時代が到来しておら ず、カラー印刷が混じった出版物を出すにはリスクが大きかった。ビデオなら 個人でダビングしても人に手渡せるので、ビデオカメラを手にしてビデオ出版 もやった。

 そんな1990年ごろ、高橋ゆりこがプラサード書店に入ってきた。彼女は一時 期c+Fのメンバーであったし、西荻育ちの人でもあった。初代鶴田静から数え て4代目の洋書担当である。しかし、ゆりこが入ってしばらくした1992年の夏、 僕は店を辞める決意をした。生家のある富士吉田へ帰ることにしたのだ。店を 閉めるという選択肢もあったが、ほびっと村学校の運営もあり、せっかくプラ サードという本屋を与えられて、この場があるのに辞めてしまうのはもったい ない。誰かが受け継いでくれることを願った。輸入書が店の利益の柱のひとつ であり、スタッフ数人の中でゆりこの選書感覚がわたしに一番近かったので、 彼女を後継に指名した。

 こうして、ゆりこが本屋と学校を引き受けてくれたのだが、プラサード書店 という名をそのまま受け継ぎたいという。「プラサード」とはサンスクリット 語で「神様への贈りもの」かつ「神様からの授かりもの」、ヨガの最終十段階 目として「人が神になる」ことなど、様々な意味を持つ言葉だ。僕は支店や チェーン展開を良しとしなかったのと同じ気持ちで、新しい事業主体は新しい 名前を持った方がいいと思っていた。プラサード書店には出版と卸部門があり今でも富士山で続いていることなので、別に名前を付けてもらわなければなら なかった。

 新しい名前はなかなか決まらなかった。 ネパール人の友人にイソール・グルンがいた。ネパーリ・ビートのバンド リーダーで、ボーカルもソングライターも担当していて、サンスクリット語に も長けていた。ゆりこと3人で話していたら、「新しい贈り物ね。それなら、なわぷらさーどだよ」「えっ、名はプラサード?」「違うよ。新しいというサンスクリット語はナワというんだ。ナワプラサー ドがいいんじゃない!」こうして、ほびっと村の本屋はプラサード書店からナワプラサードへ生まれ 変わったのです。

 
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