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2003.12 | ||
いつも月末はかわら版の編集やら印刷やらで忙しいが、でも紅葉のシーズンだっ! 1日ぽっかり日が空いたので、高尾山に行ってみた。平日なのに、混んでた。小柄な私より背の低いじじばばでいっぱいであった。父の病気のことを思い、父母がハイキングをするような人たちであったらなあ、と思ったりした。山頂にいたるまでは人でいっぱいであったが、少し道を外れると、もうとたんに人がいなくなるのが不思議。たまに会うのは、ちょっと奇特な人たち、山の気配を楽しんでいる人たちだ。陣馬山にまわる道や、メーンコースでない高尾山周辺の道は、ほんとに静かだった。紅葉はもう最後だろう。1本みごとなもみじを見つけた。あまりゴージャスできれいだったので、その下に寝そべって見上げてみた。冬の曇り空の下、枝ぶりの細かさ、さまざまな赤のもみじ葉のかさなりぐあい、隣の裸の木のこまやかな枝分かれ、ほんとに陶然とする美しさだった。今度は母の手を思い出した。小さな、しわしわの、葉脈のような、レースのような母の手。それがイメージの中でどんどん大きくなって、もみじの枝や隣の裸の木の枝に重なっていくのだった。白い曇り空の下、もうひとつ生きた淡紅色を重ねていく。わあーい、と思っていると、今度は自分の血管が脈打ってきた。私も枝と同じものでできているのかもしれない........。 帰り道、茶店でうどんと豆腐と紅芋ようかんを買った(うむ、私は食いしんぼ)。きょうあたり食べてみようかな、どうしようかな。まず豆腐から、いくかなあ。(ゆりこ) |
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2003.11 | ||
ニチャン・リンポチェ 梅野泉 10月12日の『仏教と私』ダルマ・トーク・ライブについていろいろ書きたかったのですが、お二人の詩がすべてをあらわしている気がして、余計なことは省きました。こんな小さな欄にしか載せられなかったのが残念ですが、参加なさらなかった方にもそのエッセンスをお分けしたいと思いました。ああ、そうです、事前にリンポチェに詩をお願いしたとき、テーマは「平和」だったのです。(ゆ) |
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2003.10 | ||
秋が来た。なんとも空気がきれいで、きもちいい日が続く。店のなかの日差しもなんだか柔らかく、ちょっぴりはかない感じ。暑くて本なんかとても読めない、と思っていたのが、静かに本を手にとりたくなる。何人かで本屋に遊びに来て、賑やかに本選び、そのうち、1人ずつ黙って本を読んでる、そういう楽しい風景(本屋にとってはね)が前より多くなった。ああ、このごろは、本を読むって、ほんとにぜいたくなことだ、と思う。だって、たったひとり、手紙を読んでいるようなものだよ。著者からの長い長い手紙を。書くべきひとが書いて、読むべきひとが読むのが理想だけどさ。そうもいかない出版事情はともかく、書店員とはそういうことの手助けができれはいいなあ、と思っている地味な、でも少しいたずら好きの、ひとたちなんであります。 「本は唖のひと」「本はたったひとりのひとのために存在する」「本はすべてを受け入れる」「本はどんな人間をも拒否しない」(詩人 河村悟)。ますます、本が贅沢品になりますように。ぜいたくはすてき。(ゆ) |
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2003.09 | ||
台風の日は好き。雲が南から北へとても早く動く。風は湿気をはらんで、こんな西荻の山の手に住んでいても、海の匂いがするようだ。雨が降り出す前、犬と二人でベランダに出て、空や風や木の動きを見るともなしに見ていると、とつぜん、「お母さんがやってくる」というフレーズが浮んだ。そうだ。私たちのお母さんがやってくるのだ。古い古い昔から、風に乗って。ああ、なんて幸せ、お母さんに会えるなんて、と思い、犬を撫でる。犬にも「私たちのお母さんがくるよ。」と教えてあげる。余り関心はなさそうだけど、とりあえず私のそばにはいてくれる。ああ、それに家々! 雨風にびくともしない家々は何だろう?と思ったら、「お父さん!」の声がした。そうだ、私たち子どもを必死で守ってくれるお父さん! こんなにこんなに守られて.....。生きてるってことはスゴイな〜、とリスペクトの心が湧いてくる。ばら色の人生を生きたいと思っていたが、すでにずっとそうなのだった.....。いろんなことがあるすぎるくらいにあるけど、それでも自由はいつでもすぐそばにあるのだった。生きてる不安や問題をすべて吹き飛ばしてくれる台風の日、私はお母さんでもお父さんでも子どもでもあるのだった。(ゆりこ) | ||
2003.07-08 | ||
父が入院した。もう何度めだろう。お腹の調子が悪くて入院したのに、「心不全」という病名がつき、心臓にペースメーカーを入れることになった。父は元エンジニアで、西洋医療を信奉しているので、他に選択肢はなかった。手術の翌日見舞いにいくと、さらにやせていたが、でも幸せそうであった。局所麻酔だったが、途中で眠ってしまい、気づくと病室、「あ、生きてる」と思ったそうである。 父の左目のまわりが殴られたあとのように青黒くなっているので、一瞬、頭の手術をして血が下がってきた錯覚を覚えたが、これは入院の日、病室のトイレで転んでおでこを打った後の「良くなるサイン」だそうだ。それで父は傷害保険に入っていたことを思い出し、「その金でママと旅行にいける......。」ととらぬたぬきの皮算用、嬉しそうに笑っている。私と母はその明るい生きる意欲に呆れるばかりである。私などは(若いせいだろうか)どうせ負け戦なのに....、死に抗うのはやめよう、などと観念的だな。父は日系2世(昔の帰国子女)なので、母は「アメリカ人は違うわ」と変に感心している。 思えば理解しにくい父であった。働き者でエゴイストで。好きでない時期が長かったが、でも考えてみれば父のことを何も知らないのであった。どんな子どもだったか、どんな若者だったか、私が知っているのは、中年以降の、家庭での側面でしかない。変な男である。お化けのような、ひょうひょうとした面もある。私のなかの変なところや、タフなところは、彼からの遺伝だろうか? よく分らないが、私があるのは、彼がいたからだ!と、くらくらする。母はまだ分かりやすいのだが。他の女のひとたちに聞いてみたい、お父さんとは仲がよかった? お父さんのこと、どれくらい分かっている? 私は知らないことだらけなのを、また感じている。(ゆ) |
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2003.06 | ||
このごろ、自分が赤ちゃんみたいに無知だなあ、と思うことが多い。歴史を何も知らないことだ。日本の身体の文化についても、仏教そのものに対しても、世界のさまざまな歴史・政治に関しても。本屋さんなのに、である。いつまでも、入り口にいてどうする。若くて生意気だったころ、自分がバカだと知ってショックだった以来。そんなに今回はショックというのと違うけど、でもこのボディブローはきついかも。 言い訳はいろいろある。忙しい、etc。でも、パエロ・コエーリョの言う「良き戦い」を怠けているのだけは、分かった。戦うには、力がいるので、どうしたらその力を得られるか、考えた。まず、世界の動向のバカバカしさを笑い飛ばすこと。そこで、戦争映画を見ることにした。ユーゴの内戦を描いた「ノーマンズ・ランド」、パレスチナの「D.I」、中国の日本人捕虜を描いた「鬼子来了」(鬼が来た)などである。極限の、バカバカしさ、である。つまらないロマンス中心の戦争モノも、とりあえず歴史の勉強にはなるので、見ている。ダライラマの憂鬱のかけらもない、実際的なところも真似できるなら(恐れ多いけど)、してみよう。 書いててどきどきしてきた。ゆ、大丈夫? でも、まあ前へ進もう。仏教のこともそうだ。とても関心が深いのだが、まだ入り口だ。日本という国で、仏教徒になりたいのだが、どうしていいか分らない。身体の繊細なたちふるまい、仕草など、失われた文化を学びたいのだが、それもよく分らない。自分の世代でぶっだぎって平気だったものに対して、復讐されている感じ。だから、赤ちゃん。むむむ、である。まあ、これも自分がなにか、よ〜く考えることにつながっていけば、そして時代の制約をひとつひとつはずしていければ、よしとせねばな。先は長い。(ゆ) |
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2003.05 | ||
友人の平井哲蔵さんの個展が沼袋でやっていたので行ってみた。 ギャラリーも面白いトコだったが、あらためて「アートの力」を思った。心の中にほっこり、しんとした空間を作ってくれるようなのである。彼の作品はひとつひとつ灯りが向う側にあって、絵が浮かびあがってくるしかけになっていた。絵はだいたい、男とも女ともつかないようなひとが独り空に浮いていたりするような絵だ。いったん見終わって地下のバーでコーヒーを(前の人の個展でやった「ブリキの小屋」がバーに置いてあったので、その中で)ひとりで飲んだ。子どものころの隠れ家的雰囲気の一畳に満たないその小屋のなかで、外(といってもバーの中だが)に流れるボサノバの音楽を聞きながら、一人になることの大切さをしみじみ感じたのだった。自分の心の中の大切な空間を、何もないきれいな空間を、ヒトは忘れてはいけないのだ!! 多分そういうものでヒトはできているのだ。 だがヒトは一人で生きている訳ではない。もうコミュニティというものがない都会でさえ、ヒトはあらゆる関わりの中で生きている。友人・家族だけではない、好き嫌いでいったら嫌いな人とさえ、なんらかの関わりがあるのである。一蓮托生という言葉が昔あったけど、みんなガンジス河の真砂(まさご)なのである。そんな砂の一粒より小さいひとりひとりのなかにある何もないきれいな空間を、思い出させてくれるアートの力ってすごくないか?? でもそのアートだって、誰かが(この場合は私が)見なければ、そういうことは起きないのである。ああ、ヒトとヒトとの、モノとヒトとの関わりをバカにしちゃいけない、とひしと感じた、絹のような雨降る四月末の一日。(ゆ) |
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2003.04 | ||
イラク空爆が始まって三日目、マタニティクラスを終えてでてきた講師のきくちさかえさんはこう言った。「妊婦さんたちにはテレビは見るな、と言ったよ。」 本当にそうである。一種のメディア戦争なのだ。本当の爆撃や戦いの他に、メディアの戦争があって、二重三重のわけのわからない戦争なのである。人はこんな暴力には耐えられないのだから、妊婦さんに限らずテレビのスイッチは切りっぱなしにしておくのがよい。 今年一月、ブッダガヤのカーラチャクラ法要に行った時、友人がプレス席で出会ったクロアチアの女性ジャーナリスト。ユーゴの内戦で家族も仕事も何もかも失い、すがるような思いでインド・ダラムサラのダライラマに会いにきて、戦争について尋ねたところ、「すべては無常である。だが、変化するゆえに、ものごとはいつか終わる。それがいつかは人間には分からないが。」「リーダーというものの存在は、混乱しているときにはなおさら影響を与えるので、希望を失ってはいけない、と伝えてほしい。希望をもつように、と伝えてほしい。」 以来、彼女は人に希望を与えるような仕事をしよう、と心に決めたそうだ。 この日本で、何もかもあって、でも希望だけがはっきりとない(!)なかで、個人個人がNO WARと言うことはとても大切だと思う。空は上天気、春のどけき花咲くころ、青空を味方にして、声にだして言ってみよう。NO WAR! YES PEACE!! って。(ゆりこ) |
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2003.03 | ||
久しぶりに、サイフを失くした。久しぶり、というのは、若い頃はボーッとしていたのでよく失くしていたのだ。その頃見た夢で印象的だったのがある。友だちが死んで(実際にはその数年前に死んだ友人だ)、なんだか警察に連れていかれた霊安室の前でびびる私。こわごわドアをなんとか開けると、予想に反して中は明るく光が射し込んでいて、しかもその何もないへやのまん中に、私のサイフが(さんぜんと、だ)落ちているのだった! そのあと頃からか、サイフを失くさない女に変身していたのだが、きのう、インド・ブッダガヤ効果が薄れていく悲しみにふけっていたせいだろうか、帰りのバスで失くしたらしかった。バッグの中にもなかった。うーん、いかんなあと思い、何の警告だろう、と考える。ぼやぼやするな、感傷的になるな、ということか? うーん確かに感傷は何の役にも立たないのであった。私の生活に役立つのは感傷よりも金であった。 思えば、浮き世の苦労は昔から、金と人間関係、これに尽きる。ままならぬものは、この2つ、多かれ少なかれみなさんもそうだろう。そのなかで、いろいろ学んで、たぶん素晴らしいことを発見して、死んでいくのだ。そう思ったら、考えが少し前向きになった。インドがあまりにもいろいろあからさまにむきだしに面白かったので、日本のこの曖昧さ、甘さ、つまんなさにがっかりしていたのだ。だがいずれにしろ、夢、である。この生ぬるい日本で、分けのわからないまま苦労するのも、なにかのカルマだろう。したいことをすぐにちゃんとやって、したくないこと(あるいはできないこと、だな)はなるべく忌避する(うまくいくかなあ?)、そうやっていけばいい、そうやっていけば、このあいまいな自分にも、いつかおさらばじゃ〜!!(ゆりこ) |
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2003.02 | ||
ブッダガヤにて 1月の半ば、仏さまが悟りをひらかれた地、インド・ブッダガヤに行くことができた。ダライラマの平和祈願、カーラチャクラ法要に行こう、と誘ってくれた友人がいたのである。日本から2日半かけて着いた(霧で汽車は8時間の遅れ)ブッダガヤは、インド全土、ネパール、ブータン、またチベット本土からやってきたチベット人(ブータン人も)の僧侶やふつうの人々で押すな押すな、であった。また他にも団体で私が見たのは、イタリー人、オーストラリア人、ニュージーランド人、ロシア人、韓国人、台湾人などなど。個人旅行者となると、もうさまざまであった。生涯私はこんなにたくさんの異民族にいっぺんに接したのは初めてな気がする。昼間は暑くほこりっぽく、夜は東京より寒いくらいの北インドの田舎町に一大チベットタウンができたのである。
今回はセキュリティが厳しく、カメラはだめ、ボディチェックあり、銃をもったインド兵士(警察かもしれん)が見守るなか、毎日法要が行なわれる。そのものものしさを和らげてくれたのは、法要に参加した十何万人全員に、バター茶を配る数百人の若いチベット僧たちであった。錫のポットをぶらさげて、彼らは会場(もちろん野外、天蓋はあるが)を全速力で走るのである。もう嬉しくて走らずにはおれない、ように走るのである。早い、早い。かえりは空だからとくに早い。またどこからか2回めをいれて嬉しそうに戻ってくる。よけ損なって突き飛ばされる人もあるが、文句を言おうと起き上がっても、相手はもうどこかずっと先。それを見ているのはほんとに楽しかった。チベット民族の健全な一面が見れて、ほんとによかった。ずっと前から思っていたが、仏教はこの人たちの自然さをぜんぜん損ねていないのだ。(うーーん、日本はどうか、とすぐ思っちゃうのが、なー、である)。
夕方外に出ると、今度は居並ぶチベットカフェ(もちろんテントだ)、商魂逞しいチベット人やインド人の物売り、そして、近隣から集まる乞食の数も半端じゃない(千人はいたか??)。私が見た限りだが、この人たちにお布施をやっているのは、チベット人のおばあさん位で、あとの人たちはほとんど無視、というのもおそろしい現実であった。ほんとにインドは何もかもあからさまなところであった。やられた。深く深く、やられた。(腹もやられたが、医療テントで、チベットの丸薬をもらい、だましだまし)。
他にもたくさんのことがあったが、とても書ききれない。これまで、いろんな旅をしたが、こんなに身体深くささる旅は、若いときの放浪の旅以来だろう。長い長い夢を見たような。飛行機のなかで、私はそのありがたさに泣いたのだった。その、ありがたさ、というのは、すべての、と言い換えてもいい。これまでの人生を思って、これからを思って、ありがたくて、泣いたのだった。ちょうど照明が消されたときでよかった。帰りはひとりだったので泣けたのかもしれなかった。
それから短い夢を見た。うたげのあと、仏さまが寝釈迦姿でひとりでおられる。チャンス。私が近付いてもいいか?と聞くと、よし、と答えられたような。でも、答えはなかったような。そんな夢だった。(ゆりこ)
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2003.03 | ||
久しぶりに、サイフを失くした。久しぶり、というのは、若い頃はボーッとしていたのでよく失くしていたのだ。その頃見た夢で印象的だったのがある。友だちが死んで(実際にはその数年前に死んだ友人だ)、なんだか警察に連れていかれた霊安室の前でびびる私。こわごわドアをなんとか開けると、予想に反して中は明るく光が射し込んでいて、しかもその何もないへやのまん中に、私のサイフが(さんぜんと、だ)落ちているのだった! そのあと頃からか、サイフを失くさない女に変身していたのだが、きのう、インド・ブッダガヤ効果が薄れていく悲しみにふけっていたせいだろうか、帰りのバスで失くしたらしかった。バッグの中にもなかった。うーん、いかんなあと思い、何の警告だろう、と考える。ぼやぼやするな、感傷的になるな、ということか? うーん確かに感傷は何の役にも立たないのであった。私の生活に役立つのは感傷よりも金であった。 思えば、浮き世の苦労は昔から、金と人間関係、これに尽きる。ままならぬものは、この2つ、多かれ少なかれみなさんもそうだろう。そのなかで、いろいろ学んで、たぶん素晴らしいことを発見して、死んでいくのだ。そう思ったら、考えが少し前向きになった。インドがあまりにもいろいろあからさまにむきだしに面白かったので、日本のこの曖昧さ、甘さ、つまんなさにがっかりしていたのだ。だがいずれにしろ、夢、である。この生ぬるい日本で、分けのわからないまま苦労するのも、なにかのカルマだろう。したいことをすぐにちゃんとやって、したくないこと(あるいはできないこと、だな)はなるべく忌避する(うまくいくかなあ?)、そうやっていけばいい、そうやっていけば、このあいまいな自分にも、いつかおさらばじゃ〜!!(ゆりこ) |
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2003.02 | ||
ブッダガヤにて 1月の半ば、仏さまが悟りをひらかれた地、インド・ブッダガヤに行くことができた。ダライラマの平和祈願、カーラチャクラ法要に行こう、と誘ってくれた友人がいたのである。日本から2日半かけて着いた(霧で汽車は8時間の遅れ)ブッダガヤは、インド全土、ネパール、ブータン、またチベット本土からやってきたチベット人(ブータン人も)の僧侶やふつうの人々で押すな押すな、であった。また他にも団体で私が見たのは、イタリー人、オーストラリア人、ニュージーランド人、ロシア人、韓国人、台湾人などなど。個人旅行者となると、もうさまざまであった。生涯私はこんなにたくさんの異民族にいっぺんに接したのは初めてな気がする。昼間は暑くほこりっぽく、夜は東京より寒いくらいの北インドの田舎町に一大チベットタウンができたのである。 今回はセキュリティが厳しく、カメラはだめ、ボディチェックあり、銃をもったインド兵士(警察かもしれん)が見守るなか、毎日法要が行なわれる。そのものものしさを和らげてくれたのは、法要に参加した十何万人全員に、バター茶を配る数百人の若いチベット僧たちであった。錫のポットをぶらさげて、彼らは会場(もちろん野外、天蓋はあるが)を全速力で走るのである。もう嬉しくて走らずにはおれない、ように走るのである。早い、早い。かえりは空だからとくに早い。またどこからか2回めをいれて嬉しそうに戻ってくる。よけ損なって突き飛ばされる人もあるが、文句を言おうと起き上がっても、相手はもうどこかずっと先。それを見ているのはほんとに楽しかった。チベット民族の健全な一面が見れて、ほんとによかった。ずっと前から思っていたが、仏教はこの人たちの自然さをぜんぜん損ねていないのだ。(うーーん、日本はどうか、とすぐ思っちゃうのが、なー、である)。 夕方外に出ると、今度は居並ぶチベットカフェ(もちろんテントだ)、商魂逞しいチベット人やインド人の物売り、そして、近隣から集まる乞食の数も半端じゃない(千人はいたか??)。私が見た限りだが、この人たちにお布施をやっているのは、チベット人のおばあさん位で、あとの人たちはほとんど無視、というのもおそろしい現実であった。ほんとにインドは何もかもあからさまなところであった。やられた。深く深く、やられた。(腹もやられたが、医療テントで、チベットの丸薬をもらい、だましだまし)。 他にもたくさんのことがあったが、とても書ききれない。これまで、いろんな旅をしたが、こんなに身体深くささる旅は、若いときの放浪の旅以来だろう。長い長い夢を見たような。飛行機のなかで、私はそのありがたさに泣いたのだった。その、ありがたさ、というのは、すべての、と言い換えてもいい。これまでの人生を思って、これからを思って、ありがたくて、泣いたのだった。ちょうど照明が消されたときでよかった。帰りはひとりだったので泣けたのかもしれなかった。 それから短い夢を見た。うたげのあと、仏さまが寝釈迦姿でひとりでおられる。チャンス。私が近付いてもいいか?と聞くと、よし、と答えられたような。でも、答えはなかったような。そんな夢だった。(ゆりこ) |
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2003.01 | ||
年末から年始にかけて、書棚の大シャッフルをした。まず洋書と和書をまぜ、ああかな、こうかな、と大移動。そのうち、こっちの方がいいかな、この台もこっちへ移そう、と次から次へとアイデアが湧いてくる。そのうち、だんだん落ちついて、今の形に近くなってきた。スタッフ全員、かなり集中してやったので、正月休み、みんなその夢を各自の家で見る始末。北海道にいる元スタッフも、初夢に、おおナワの本棚の整理を手伝ってやるか、と思ったところで終わる夢を見た、というから、その波及度はすごい。 居心地がよくなったところで、今度はタイトルつけである。土はきほん、いろいろやってみよう、地域通貨、どうぶつもともだち、山歩き・里歩き、地球歩き、身体にきく、若さのひみつ、夢にきく、悩み深きは...みんなそう、きもちよく暮らしたい、いのちのつながり・おいしいごはん、日本のいろいろ、暮らしの技術、目のよろこび、セックスはだいじ、三省さんどこにいるの?、女のひみつ、などなど。まだ、タイトルが決まっていない棚もある。こころなしか、お客さんが前より長くいてくれるようになった気がするが、どうだろう? ああ、これで、中庭でもあれば、最高である。鳥が木の実をついばみにきて、私はそんな本屋で居眠りをしたい....。(ゆ) | ||
この文章は紙版「ほびっと村学校かわらばん」の編集後記です。ナワプラサードの高橋ゆりこによって書かれました。 |
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