nawa prasad 2005 

 

 

 


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2005.12
 待つこと。このことを最初に知ったのは、初めての出産だった。破水から生まれるまで5時間という早いお産だったが、母やら当時の夫やら、大勢で押し掛けた今はなき三森助産院で、私を含めて、みんな興奮したり気が気じゃなかった。でも、助産婦の三森孔子さんは、ラマーズ呼吸法でふぅふぅ言っている私の横で、みかんをむき、ゆっくり食べ、しかも私に「食べる?」と聞いたのだった。女の人のサンクチュアリだった当時の三森助産院。助産婦は法律的に切開と縫合の医療行為を行うことができないので、肛門を押えながら、会陰が切れないように上手に待つことが技術だ、と後で聞いた。私は、待つことの内容を、みかんを差し出されたときに、知ったのだった。
 きのう若いお母さんと赤ちゃんが店に来た。その人と話していたら、もう一つのエピソードを思い出した。ソギャル・リンポチェ(『チベットの生と死の書』の著者・高僧)が1年前に日本にいらして、うちのスタッフが参加した会でのこと。赤ちゃんを連れてきていた人がいた。その子が泣くので、参加者から、お話がよく聞こえないんですとクレームがでた。間髪を入れず、リンポチェと通訳のペマ・ギャルポ氏が「そんなことは問題ではない!」と同時におっしゃったそうだ。そうだよな。そんなことは問題ではぜんぜんないのだ。
 待つことは、楽しいってなれればいいなぁ。スローライフという和製英語がはやっているけど、そんなこと当たり前の世の中がいいなぁ。もっとゆるやかに自由、そう、緩急自在がいちばん大切なのではないのかなぁ。(ゆ)

今月のおすすめ本

おすすめ本バックナンバー

ロングセラーズ

2005.10  

 今、ナワプラサードが選ぶ100冊の本、という本をつくろうとしている。そこでいろいろな本を選んだのだが、お金の本のところに来て、はたと困った。よい本がないのだ。お金について、ニューエイジでは、エネルギーのひとつとして考えて、嫌うな、というのが姿勢だ。5年くらい前だったか、本屋の経営に悩んだ時、自己催眠でお金の神さまに会いにいってみたことがあった。私の場合は、なんと会ってみたら、ジョンとヨーコだったので、びっくりだった。結局は自分を大切に、というアドヴァイスだったように思うが、(なにしろ催眠なのであまり覚えていない)、目が覚めてから、あっ、あの金があった、と忘れていた金を思い出したのだった。
 現代は中流意識がなくなって、金持ちと貧乏人の格差がひどくなっている。うちの若いスタッフはこう言う。「お金がないと、不幸な気持ちになる。これは何? 1円でもゴミ箱に捨てられない。これは何? 物や人さえも捨てられるのに、さいごまでお金は捨てない。これって何??」 ほんとに何!?だよね。そんなに大切なものなのか。必要なのか。地獄の沙汰も金次第、と言われるものなのか、金があればある程度の幸せは買えるものなのか。人の間をぐるぐる廻っているという点では、まったくエネルギーではあるのだが。だけど、こんなに翻弄されていいものか。
 でたばかりの本、赤瀬川源平の半分絵本『ふしぎなお金』(毎日新聞社)を読むと、彼も同じように疑問をたくさんもっていることが分かった。分からないものを考えるのは哲学だ、という。だけど、哲学的にお金を考察したい訳ではない、振り回されたくないだけなのだ。なくても平気になりたい。みなさんはどうしてますか?(ゆ)

**この編集後記をまとめたものと100冊の本の紹介の本が、きっと今年中にでます。予約を受け付けてます。みなさん、よろしくね**

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2005.08  

 おかあさん どこがどうして 話してみて
 おとうさん にやっと天から 守ってて
 娘たち はれやかな日々を まっとうし
 友人たち おのずと力を ひらかせて
 小さき日々よ 大きないのちよ
 わたしのなかのいちばん美しいものに
 会えますように

親不孝についてぼんやり考える。じゅんばんこ、がいちばんの親孝行と思ってた。自分の子どもを可愛がれば、それでいいじゃないか。無理に親孝行しなくてもいいのだって。友人の義理のお姉さんがガンで亡くなったのだ。その人は、自分の息子を交通事故で亡くしている。親(もう80代だ)は、まだ2人とも元気なのに。まったく逆の順番だ。孫、子を亡くした老親。
 そんなことをきのう聞いたせいだろう。小さいころの娘たちが夢にでてきた。今より賢そうなのだ(ごめん!)。小さい子は余計なことを言わないし、言えないせいだろう。ただただ、可愛かった。子供の保育園時代の友人の家に遊びにいった私を捜しにきて、横で眠ってしまったのだ。私もいっしょに眠ってしまい(夢の中でも眠れるのだ...)、起きて、あぁ、かけてあるものが薄すぎたな、とちょっと反省する夢だった。
 先の友人と話したことがある。彼女の息子は親を尊敬しているのだ。私の娘たちもある意味でそうだ。だが、私たちの世代はどうだろう。反発ばかりして、賢くなかったのではないか。若いエネルギーはあったかもしれないが、無知そのものではなかったか。自分がここにいる、という幸福を、その因果を、今はそのじゅんばんこのおかげで、少しは知ったのかもしれない。おとうさん、私は親不孝ではないよね?(ゆ)

2005.06  
 かくれみのという植物。庭木によく植えられているウコギ科の植物だが、これにかぶれるとは思わなかった。地味にずっと家の庭の端にあって、ある日、ベランダにでていた時、日がもう少しこっちに当たった方がいいなと思い、この木を少し切ろうと思った。ばっさばっさと切り、でも今年新しくでた葉がかわいい。それを家に活け、ついでに店にも活けた。その日は他にも姫リンゴの木の虫をやっつける為に木酢液を散布し、今年は豊作の梅の実を拾い(梅酒をつくるのだ)、なんと充実した日だったろう。でもそれからなんだか手が痒い。ついでに顔にも湿疹がでた。最初は、うう、植物か虫の逆襲だ、と冗談を言っていたのだが、とうとうお岩さん状態となり、いろいろ知る限りの手当をしたがどうにもならず、ついに医者に行った。そこで、気をつける植物の4番目に載っていたのだ。ステロイド剤が処方された。今は大人しく塗り薬と飲用薬のお世話になっている。どうもふさがれている感覚があるが、ともかくどうしようもない痒さはなくなった。人に話すと、みんな自分の手当法を教えてくれる。ありがたい。整体の人は、恥骨に愉気しなさい、肝臓と化膿活点も大切。山歩きの人は、アロエがいいよ。私もアロマオイルや、つわぶきなどは試したのだ。化膿活点は忘れていたが。
 ああ、でもどうしたことだろうかねぇ、スピリチュアルには? かくれみの、だぞ。切ったとたんにやられるなんて。対処療法を探しながら、本当はそこらへんが知りたかった。今夜あたり、この季節の私の居間であるベランダにでて、おずおずと植物に聞いてみようかな。(ゆ)
2005.04  
 時代のせいか年のせいか分らぬが、最近孤独をひじょうに感じる。人に会ってもつながっている感じが希薄だ。いわば沙漠の花のようなのだ。その花は美しくてちょっとの間は見とれるが、やがて両手から砂がこぼれていき、あとかたもない。どうもすべてにリアリティを感じにくいのだ。
 オーストラリアの友人から、アボリジニの人たちが作ったという”涙の石”のお守りをもらった。ひじょうに薄い小さな石で、へびのような文様が描いてある。その友人によれば、泉が地から湧くように、涙は初めて外にでるので、ひじょうに聖なるものであるという。(なんてすてきな考え方だ!)。泣いたとき、その石でこすって、自分の涙を集める。そのためた涙によって石が今度は自分を守ってくれる。すごくありがたくて大切にしていたが、スリランカの津波で生死を分けた体験をした友人がいて、私より必要だと思いあげてしまった。
 ずいぶん泣いていない。うるうるはあっても、声をあげて泣くことなどない。自分で石を拾って自分で涙の石を作ったほうがいいな、と感じている。希望がなくかさかさの時代を生き延びるには、私ひとりでなく、みんなで泣いたほうがいいのかもしれない。(ゆ)
2005.02  

 いつも仕入れは、水道橋の日販(もうすぐ葛西に引っ越すが)と、神保町の小さな取次をまわる。きょうは、日販にて支払いのとき、現金を入れた封筒をひょいと見ると、カラ。ものすごくあせった。さっきまであったのに。明日は鏡リュウジさんが来る日だから、占星術関係の本を今日買わないと、売り損なう。銀行へ行くべきか? いや、その前に探そう。日販中を探しまわり、ない。いつも日販で会う、顔は何度も見かけるものの、話をしたことがない本屋さんたちを疑ってしまった。あの人か? いやこの人がまさか?、不況だしな、などと余計なことも考える。結局、あったのだが。バッグの中の別の現金の封筒に本のスリップをつっこんであったので金が見えなかったのだ。でも、この間の疑心暗鬼はすごかった。ひとり静かに心の中で騒いでいたので、受付のお姉さんが心配してくれた他は、誰にも迷惑はかけなかったのだが。でも、日販を出てつくづく思った。もう、自分のことを信用しないようにしよう。自分の考えはこの程度なのだ。異常に疲れた。
 昔、「羅生門」という黒沢の映画があったそうな。私は見てないが、ひとつの事件を巡り体験した人の意見が全員違っていて、どれが真実がわからない...というところが面白かったとか。そうだよな、と思った。たった独りでも、事実は、金の袋に本のスリップをつっこんでいた、ということだけなのに、この騒ぎだ、妄想だ。何人もからんでいたら、事態は複雑になるばかり。ああ、でも本のスリップをつっこんだときに何らかの自覚があれば、こんなふうにはならない。自分の行為への自覚が足りないのだ。まだら自覚だな。まだらぼけかもしれないが。え〜〜い、こんなめんどくさいことくどくど書いて、何が楽しいのだ! 喝っ! だな。(ゆ)

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この文章は紙版「ほびっと村学校かわらばん」の編集後記です。ナワプラサードの高橋ゆりこによって書かれました。

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