nawa prasad 2004 

 


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2004.12

 ブッシュが勝って2週間。なんとも嫌な気分が続いた。自分のつっぱりやら、不甲斐なさにもうんざりだった。それで、ある夜、無意識にはもう泣きたいと思っていたのだろう。ベッドに入って、本を読んでいたら、ぐわっと涙がでてきた。自分が幸せなんだか、情けないんだか、分らない涙だった。本を横において、何の気なしに、胸に手をおいた。しばらくそのまま、泣いていた。気がつくと、その両手が、胸のなかに入っていくようなのだ。手が胸から離れない、どうにもくっついているみたいに、ずんずん、中へ入ってゆく。胸がものすごく柔らかくなっているのだ!  あせった。整体の治療でそういうことはある、と話には聞いていたが、自分の手も自分ではないし、自分の胸ももう自分の胸ではないみたい。なにか不思議なことが起こっていた。両手とも離れそうにない。力づくでやればできそうな気もしたが、もったいない、ずっとこのままでいよう、と思った。何センチも胸の中に沈んだような手のまま、手と胸の区別もつきにくいまま、それをただ味わった。つまらない考えも浮かんで来たが、それはまた消えて行った。30分くらい?そのままだった。そして少し姿勢を変えたら、手は離れていった。
 翌日から勇気元気100倍、ということはなかった。でも1.5倍くらいにはなったかな。少し冷静になれたというか。この時代を生きていくには、勇気がいる。楽しく、平和に暮らしていきたいのに、そうじゃなさすぎるから。でも自分の涙でさえ、きっとなにかの役にはたつのだ。泣けばいい、悲しいなら。そうやって泣いてるほうが、無関心の鎧を着ているよりはずっと人間的だ。すさむ側より、泣く側になりたい。そのほうがまだ癒されてある。泣く側が多くなればいいのである。(ゆ)

これを書いた翌日、選挙の結果を憂いているアメリカ人のサイト”SORRY EVERYBODY"を友人が教えてくれた。みんな行ってみてね。www.sorryeverybody.com

2004.10
 正宗太極拳の大友さんの主宰する、くにうみまつりに出店した。いろいろな人との出会いがあり楽しかったが、シンポジウムの最後の、若い男の子の発言がなんだか心に残った。いわく、家の中で玄米派とそうじゃない派があってうまくいかない、というのではなく、じゃあ五穀を入れて炊いてみようとかいろいろ工夫して、家族とうまくつきあっていくのが、平和ということではないか?
 その翌朝、夢を見た。夢の中では、個人と伝統の問題をいっきに解決できる”戸籍”のやり方が発見され、そしてそれを生きて、みんなで幸せに暮らしているのだった。夢から覚めても、何も大きな問題がない、幸せの感覚はまだ私の中に残っていた。
 夢の中では、個人は家の伝統に押しつぶされることなく、成人もしくは婚姻によって、自分の新しい戸籍を作るのだ。たとえばA家の次女として生まれて、自分が成人したと感じたとき、新しい戸籍を作る。それはA‘家でもいいし、まったく新しいB家でもいいのである。ただ、戸籍謄本には、父と母の名前は備考欄に記載されており、また過去帳もあって、その人の系譜が辿れるだけ書いてある。つまり、自分が今ここにいることを祝福できるように、また先祖を敬えるようにである。ただ同時に、個人としても魂としても尊重されているので、成人の儀式として新しい戸籍をつくるのがルールという社会。そしてそれは年齢制限なしの自己申告制なのだ! つまり一生子どもでいたければいれるのだが、何となくそれは尊ばれないので、自然にみな成人の道を選ぶようになる..。
 この幸せの感覚はなんだろう、と思った。子どもを自然にかわいがる社会を取り戻したいのかも? 大人になることの自由さ、責任感とやりがい、そんなものをもっと自然に、身につけたい。そんな願いを生きていたのだから。父が死んで、私もとうとう大人になれたのかもしれない。西荻ネイティブの道でいいのだ、と深く感じた夢だった。(ゆ)
2004.08
〜両側の微調整〜
 赤瀬川原平のエッセイで、自動のブラインドを新しく自分の部屋に入れた話があった。左右のブラインドの巻き戻しの速度が違うので、毎日ずらしてスイッチを押してみていたが、どうもずれる。ある日の朝、寝ぼけたままやってみたらピタっとあった。すごい、と思った。というのが、いやに印象に残っている。
 整体の稽古で、身体のなかを内観しながら、左右のずれを微調整するのを最近やったのだが、私はまず、左右どちらが遅れるのか分らないのだ。だいたい左右を、いつも取り違える。どっちを右と呼んだか、時として分らなくなる。お箸をもつのが右、と小さい頃習ったが、それでも覚えきれなかった感がある。もちろん、日常生活では左右どちらかは分っている。車も右折、左折もできる。だが、自分の身体のなかの感覚としては、どうも分らなくなりがちなのだ。ダンスを教える人で、次は右足を、とか左手を、と平気で次々と言う先生がいるが、よく言えるなぁといつも驚嘆する。なにか新しいものを習うときはいつもたいへんだ。身体と言葉がさす場所がなんだかしっくりこないのだ。それでまごまごして、よけいにできない!と思いがちになる。言葉にこだわらないと、わりとうまくいくのだが。
 カスタネーダの本のなかで、左側の教えだったか、をとつぜん右側(常識の世界)で思い出す、というのがあった。中庭のある家で逆さまに吊られていたことを思い出したのだったかなぁ。あ、右脳、左脳でいうと、左は論理、右は非論理の世界だったよね? ほら、また取り違えた。わざとか?と思う程の間違いだが、わざとではない。思うに、言葉は遅い、のだ。とくに説明的言葉は。本屋としては、そういう言葉じゃない本を置きたいと思うが、なかなかない。でもうちでロングセラーなのは、みんなそうしたいい本なのは、買う人もすごいよ、とオチがでたところで。(ゆ)
2004.06-07  
 夢のような3日間だった。ひさしぶりに家族で共同で見た夢。父が死んだのだ。早朝で誰一人臨終に間に合わなかったので、最後に病院に来た妹が「パパは公平だね」とつぶやいた。母は激しく泣き崩れる。病理解剖を提案され、最後くらいノーを言ってもいいだろうと断った。搬送車で病院から出る時、看護婦さんが一列に並んでいた。医師が来るから待っててくれと言われ、待っていると現れたのはそうじのおじさん。なんだか、すごく、おかしい。医師はあとから汗をふきふき走ってきた。みなに丁寧にあいさつされ、家に向かう。車の中では、父の遺体と、妹と私、運転手、今度は終止無言。家につき、父を和室に寝かせ、次は葬儀屋とのあわただしい打ち合わせ、会場と日程が決まる。お坊さんが来て読経、父の友人が来たり、そのたびに家族の誰かが泣く。
 翌日の通夜と翌々日の寺での葬儀は、親戚の交流の場だった。ぜんたいに笑いが多く、小さい頃誰がどうだったとか、父の知らない話もでた。父の友人や近所の人は長居しないので、どうしても親戚の祝祭??のようになる。苦手だったそうした交流も、積極的に関わっている自分に気づく。ときどきぼんやりする。あまりにも目まぐるしいせいだ。また車で移動、斎場で父が焼かれる間は、一人で外に出てタバコを吸った。広い斎場では、別の葬式の別のおじさんがタバコを吸っている。お骨になった父を抱き、寺に戻る。繰り上げ初七日の法要があり、兄のスピーチに感心し、お弁当を食べて散会となった。ひとりになった母が心配で、兄や妹が引き上げたので、私がその夜は父のベッドで眠った。
 終わってみると、わりにあわない思いが残る。死が、あまりにも圧倒的なのと、現実問題の処理の細かさが平行してすすむ。滑稽で、悲しく、でも親族の交流があり、やはりお祭りのようだ。ひさしぶりに兄妹力を合わせて楽しくもあった。へんなの。浮ついたようなきもち、沈んだきもちもあり、そのうち落ちついてくるのだろうか。父がどこにもいないのが、ただただ不思議。生きているより、近い感じすらする。私が悲しむのは、まだ先なのだろうか。(ゆ)
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2004.04-05  
 私の夢。
 殺し合いなし。殴り合いならオーケー。
 陰湿なイジメなし。明るいイタズラ、大賛成。
 形骸化した形式主義なし、マニュアルもなし。
 本心からの礼儀と乱暴ならあり。
 うまく互いを理解できなかったら?
 距離を保つこと!
 ホントにあからさまに野蛮な時代に逆行しているので
 公正の感覚はどんどん失われているので
 せめていずまいを正して、微笑む
 分るひとは分るだろう
 そういうひとは実はいっぱいいる
 バスがすれ違う時 運転手同士が黙って手をあげて会釈する
 時には笑って声をかけあうように
 ジョージ・オキーフと庭師エスティベンが井戸の蓋の上に
 まるでチェスのように、ゆっくり一日ひとつずつ
 黙って石をおきあったように
 
 笑ったり微笑んだりまた黙ったり
 そんなすてきなことをしよう
 余計なことを言わず、自分のことをしよう
 人間が美しい存在になるように
 黙っていよう泣いていよう笑っていよう
 人間の暮らしをしよう
 (ゆ)
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2004.02-03  
 ここ1ヶ月は、コンピュータ漬けの日々だった。古いマックがいかれてきたので、とうとう年末にOS10.3の新マックを買ったのである。慣れるのに、1ヶ月はかかった。データも移さなければいけないし、これまでできたこと(スキャンなど)が再びできるようになるまで、大変な思いをした。こんな未完成品を高い金で売りつけて!コンピュータ業界はまったくひどい!とか、なんども爆発しそうになった。だが、ユニバーサルリフレクソロジーの講師の木田雅子さんのひとことが効いた。「コンピュータは生命体に似ている」というのである。「人間に似ている」とも。あー、そうか、いらいらせずに、根気よくつきあう以外にないのだな。
 とはいえ、私も生身の身体、コンピュータとずっと向き合っていると、体はばりばりになる。気分転換が必要である。で、私がここ1ヶ月平行してやっていたのが、酵母づくり、パン作り。りんごや、トマトや、レーズン、みかんなどを細かくして水をちょっと入れ密封する。1週間たつと、酵母菌のできあがり、それを小麦粉でこねてパンにして焼く。うまいぞ! それに案外簡単だ。もうこの頃は、野菜果物を見るとこれも酵母にならないかしら?と思ってしまう。今は、にんじん、かぼちゃ酵母に挑戦中。生活がさらに忙しくなっているような気もするのが難点だが、この楽しさはやめられない。コンピュータともこのように仲良くできたらいいのになぁ。(ゆりこ)
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2003.12-2004.01  
 いつも月末はかわら版の編集やら印刷やらで忙しいが、でも紅葉のシーズンだっ! 1日ぽっかり日が空いたので、高尾山に行ってみた。平日なのに、混んでた。小柄な私より背の低いじじばばでいっぱいであった。父の病気のことを思い、父母がハイキングをするような人たちであったらなあ、と思ったりした。山頂にいたるまでは人でいっぱいであったが、少し道を外れると、もうとたんに人がいなくなるのが不思議。たまに会うのは、ちょっと奇特な人たち、山の気配を楽しんでいる人たちだ。陣馬山にまわる道や、メーンコースでない高尾山周辺の道は、ほんとに静かだった。紅葉はもう最後だろう。1本みごとなもみじを見つけた。あまりゴージャスできれいだったので、その下に寝そべって見上げてみた。冬の曇り空の下、枝ぶりの細かさ、さまざまな赤のもみじ葉のかさなりぐあい、隣の裸の木のこまやかな枝分かれ、ほんとに陶然とする美しさだった。今度は母の手を思い出した。小さな、しわしわの、葉脈のような、レースのような母の手。それがイメージの中でどんどん大きくなって、もみじの枝や隣の裸の木の枝に重なっていくのだった。白い曇り空の下、もうひとつ生きた淡紅色を重ねていく。わあーい、と思っていると、今度は自分の血管が脈打ってきた。私も枝と同じものでできているのかもしれない........。
 帰り道、茶店でうどんと豆腐と紅芋ようかんを買った(うむ、私は食いしんぼ)。きょうあたり食べてみようかな、どうしようかな。まず豆腐から、いくかなあ。(ゆりこ)
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この文章は紙版「ほびっと村学校かわらばん」の編集後記です。ナワプラサードの高橋ゆりこによって書かれました。

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