nawa prasad 2009


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ナワ プラサード

 
 
2009.02

 私の家ではものがよくなくなる。”物品移動”と家族で呼んでいるのだが、いたずらとしか思えない消え方で、気に入っているものばかり。好きなアクセサリ、気に入っていたスプーン四本のうちの三本、整体稽古用の薄小豆色の足袋、ともだちにもらった大切な古着のコート、愛着が過ぎて消えるのだろうか。最近ショックだったのは、火箸である。私の冬の楽しみは、炭を熾して火鉢にあたること。炭を火箸でさわり、その火のうつりゆくさまをぼ〜っと眺めるのが好きなのである。父が晩年、ゴミを燃やすのが好きだったのも、同じ心境かもしれない。で、物品移動である。この火箸は、一生物だからと思い、エイやっ、と一万八千円もだした超高級品なのだ。火鉢屋というネット販売をしているところを見つけ、同じ町内だったので、見に行って買い、二・三年使っただろうか。中が空洞で熱くならないすぐれもので、姿形も繊細で美しくて大好きだった。それがない。炭をおこそうとしたところ、ない。捨てるはずはないし、ゴミ袋にうっかり入っていれば、硬いし、長いし気づくはずだ。私は若い頃そうじが嫌いだったが、その欠点はすっかり克服し、今は家の中は比較的きれいである。だから、ものはあるべきところに置いている。なのに、ない。ああ、また起きた、がっくりである、不思議である、なんとか諦める、でも不思議である、ああ、人生といっしょかなぁ。(ゆ)

2009.04

 母は父を五年前に見送り、一人暮らしをしている。とはいえ、すぐ近くなので、ご飯をいっしょに食べることも多い。若いときの母は(小さな娘の私から見ても)きれいだった。中年の母はいろいろ苦労があるみたいで(私はまったく協力的でなかったし)疲れていた。年をとってからの母は、なんだか枯れ方がよくて、ぼけも少しあるけれど、おそらくは小さいときはこんな元気で活発であったろうな、と想像できるかわいさである。あるとき娘の婚約者と4人で、家ご飯をした。つれづれにカルマ(業)の話になり、婚約者は大学で仏教を専攻したとかで、カルマという言葉にも慣れていて当たり前のように話は続く。母は黙って聞いている。さいごに娘がうちの犬を見て、「犬にもカルマがあるのかなぁ」と言った。すかさず母、「犬はワンカルマ、わたしゃあバァカルマ。」 これには残り3人、ひっくり返ってしまったよ。

 またあるとき、母が若い頃、シンガポールで働いていた話を聞いた。戦争中の宣伝のための?映画会社である。まだ10代の母だ。海外手当もついて、母は実家に送金していた。同僚がお母さんからの手紙を見せてくれた。「お前の結婚のために箪笥(たんす)を用意しておくね」とあり、ああ、世のお母さんはそういうことをしてくれるのだ、と知ったという。母の父は再婚して、母と義母とはそれほどうまくいってなかったのである。でもそれっきりそのことは忘れ帰国した。しばらくして義母が家を出て、故郷の福井に帰ってしまった。そのとき金をみな持っていってしまい、以来音信不通となったそうだ。母は「でも、天網恢々(てんもうかいかい)、疏(そ)にして洩らさず、なのよ。ほら、福井の大地震!」と少し小気味よさそうに言った。え、そのように使うのか、この言葉は(人が使うのを初めて聞いた)。 天の理が身に沁みている世代なのだな、だから先のようなジョークが言えるのかな。(**意味わかんないって? 天の網はゆうゆう広大で、網穴が大きそうに見えるけど、何も洩らしてないのさ! ゆ)

2009.06

 思いついて、昨年お母様を亡くしたほのぼの気功講師の鳥飼美和子さんに、「双親がいないってどんな感じ?」(お父様はだいぶ前に亡くなっている)って聞いてみた。「う〜む、みなしご、かなぁ。普段は忙しいから忘れているのだけど、ふっと一人のとき、本能的にそう感じたりする。なんだか、切ない感情だなぁ。」。十年くらい前、母親を亡くした中年の男性の友人が、「まるで、みなしごハッチ」と言っていたのを、えっ、大げさ!と思っていたが、親を想う、ってそういうことなのかもしれない。自分の父親のことを考えても、生前そんなに仲良くなかったが、亡くなると、ただ懐かしくなる。かえって、そばにいる、という感覚が生まれる。なんだか守られている感覚。でも、いないのにね。いないのに、パァーッと広くそこにいる、そんな感じ。鳥飼さんも、そうだそうだ、それは私も感じる、と言っていた。

 17世紀末、「チベットの恋人」ダライ・ラマ6世は、恋愛詩をたくさん残した。「偉大な5世」のあと、夜な夜なラサの街をさまよって詩をつくったという。中でも、未生(みしょう)の母をうたった、とされる詩が美しい。未生の母とは、まだ生まれていない母、のこと。生まれ変わりを信じなければ、考えられないことだ。この詩で初めて、未生の母、という言葉を知ったとき、くらくらした。時間の観念がこっぱみじんにされたのだ。最近出版された邦訳では、「乙女子」と訳されているが、私の知っているバージョンの英訳は、

From East Hill peak,
The moon rose clear and white
Face not born of mother
Circles round and round in mind.

東の丘の頂に、月が皓々と白く光り、未生の母の顔が、心に繰り返し浮ぶ

ってへたな私の訳ですが。でもね、チベット語ではどうなんでしょう。親を慕うきもち、恋人を慕うきもち、誰かを慕うきもちはいっしょかな、まだ見ぬ、でも見たことあるような、懐かしいような、そんな人を。(ゆ)

2009.08

暑いですね。今回は私の言葉より、私の心に残った言葉を集めてみました。(ゆ)

 おまえの踊りがいま認められなくたって、千年万年経て誰かひとりでもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし永久に誰にも関係ない踊りはだめだ。(大野一雄『稽古の言葉』)

 リンゴの木を揺すると、宇宙はオレンジを与えてくれる。宇宙とはそういうものだ。(ジュリア・キャメロン『ずっとしたかったことをしなさい』)

 子どもさん、赤ちゃんをこういう場に連れてきてください。私もそうして育ったんです。(若い女性環境活動家の言葉。 7月4日、かわら版には載せられなかったが、UAと、キム・スンヨン監督を迎えて、監督が07年10月に撮った『心〜くくる やんばるの森より〜〜UAライブ』という映画の上映会をした。沖縄本島北部の原生林、やんばるの森。米軍のヘリパッド(ヘリコプターの離着陸帯)増設から、豊かな森を守ろうとする高江の住民にエールを送ろうと、シンガーUAがうたい、語ったフィルムだ。急な企画だったので、縁のある人びとに来てもらったが、参加者の顔を見ながらの会は素晴しかった。やんばるの森に象徴される大切なものを思いだそうという会でもあった。)

 生物の二大特徴は、(1)集合体であること、(2)自分と同じものをつくりだす能力を有すること(ゲーテ『形態学論集・植物編』)

 いいも悪いも、あなた。(股関節の骨折をした私が、整体の先生に、「最近そけい部がすーすーするのだが、それはいいのでしょうか?」と聞いたときの、お答え)

2009.10

 「信じないかもしれないけど、この病院には寿司屋があるんだよ。」
 「私はこの病院で殺される。ここの人は私が気が狂っているというが、私は正気だ。それだけは信じてほしい。」
 5年前に亡くなった父が、死ぬ間際に病院で私に言った言葉だ。医者は「意識混濁している」と言った。夢と現実がないまぜになっているのだろうか。認知症とも言われた。だが、考えてみてほしい。正月に少し休めば、普通の人でも曜日の感覚はなくなる。仕事をやめれば当然だし、20〜50代懸命に働いた人が少しずつひまになり病気になる。いろんな感覚が生まれるのは当然だ。働いて子育てしているときは必死だから、時間の流れはまっすぐだ。時の流れが子ども時代に逆流したり、夢と混ざるのが「認知症」とじゅっぱひとからげに言われているのだろうか。
 父の末期は満身創痍であった。前立腺ガン、狭心症、腎臓病。腎臓透析をしていたが、最後のほうは血が回らないので、ベッドをななめにされ、頭を下にして5〜6時間も拷問のようだった。言っておくが、病院としてはやるだけのことはやってくれたし、スタッフもみな一生懸命ケアをしてくれた。本人は西洋医療の信奉者であったから、冒頭の言葉は裏切られたきもちもあったかもしれない。それでも、何か根本的に間違っている、としか言いようがない。友人のお母様がケガで入院され、同様に「認知症」になられたのを聞いて、思わず書いてしまいました。(ゆ)

2009.12

 聖書の時代。イエスがマルタとマリアの姉妹に家にお入りになった。マリアは主の足もとに座って、主の話を聞いている。マルタはもてなしのために忙しく立ち働いていたが、ついにイエスに訴える。妹に手伝うように言ってくれと頼むのである。イエスの答えは、「マルタ、マルタよ。あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだのである。それを取り上げてはならない。」
 この話を知ったのは、ずいぶん小さい時だったが、すでに私はマルタの気持ちを理解した。この話を女の人にすると、老いも若きもみな、「Oh!」という顔をする。いずれにしろ、家事を期待されているし、それで、はりきりもする女たち。
 先日、友人のお母様のお見舞いに行った。退院されて自宅介護、寝たきりで口からものも食べられない。冷えていた手足のマッサージをしたら、嫌がられなかったので、そのまま続ける。でも他にはすることがない。お母様はときどき手をあげて、目をひらき、「あ”っ」と声をあげられる他は、目をつぶったままである。でもそばにいると、心が落ち着く。自分にとっては何ものにも変えられない、いい時間だった。お母様が「あ”っ」と目を開かれる度に、心があらわにされていくのだった。
 友人はその間、数々の用事をこなし、家の内外を走り回っていた。私はマリアの時間を頂いたのである。世のマルタたちにお礼を言わねばなるまい。(ゆ)

 

この文章は紙版「ほびっと村学校かわらばん」の編集後記です。ナワプラサードの高橋ゆりこによって書かれました。

 

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