nawa prasad 2013 


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   2013.12  
 今日は南風の穏やかな小春日和だ。うちの小さな庭に出て、梅の木に巻きついたツタをとったり、枝を剪定して、落ち葉を集める。赤や黄色の錦模様、きれいだ。都会ではゴミ袋に入れるのがざんねん。焚火がしたいです。

 庭掃除が終ると、本葉4~5枚の木の芽がいくつか出ているのが目立った。『葉で見わける樹木』(林将之著)で調べると、エゴノキ、イヌカシ(アラカシかも)、ブナ、、、。ここ二年くらい、今は三歳になる孫との公園めぐりで、随分ドングリや木の実を集めた。形もいろいろで、ほんとに楽しかったが、その置き土産なら、とてもすてきである。ただこの小さな庭では、これ以上、大きな木は無理かも、、。

 あときれいになった庭で目立つものは、彼岸花の細い葉。二年前、突然一輪だけ赤い花を咲かせてびっくり。株で増えるものがどうして我が家に?と思ったが謎は解けぬまま。去年も今年も花は咲かず、葉だけもりもり、いろんな箇所に増えてきた。狭い庭なのに、いろんなこと、ありすぎ。(ゆ)
 
 

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 2013.10  
 今年の秋のベランダ菜園、”たねの森”のルッコーラ、水菜、コリアンダー、葱を蒔いた。ちゃんと新月の日を選んだら、2日後から芽がどんどんでてきて幸せだった! でもそれから3週間、水菜には目に見えない小さな虫がつきほぼ全滅。ルッコーラの鉢は離しておいたのだが、今日、カメムシのような羽虫が飛んで来て、葉や細い茎にお尻をなすりつけているのを目撃。うーむ、子どもを生んだ様子である、、、。

 過日、パパイヤが食べたくなり沖縄産を買ってみた。孫がボール代わりに遊んだので表面に白い汁がでてきて、まだ固そうだが、割ってみた。するとびっくり、種のところがぽっかり空洞なのだ。大きな穴で、気持ち悪かった。身体に悪そうな気がした。ハワイのパパイヤはGM(遺伝子組み換え)と聞いて避けていたのだが、これもたぶんそうであろう、どうしても食べる気にならずゴミ箱へ。私は無知なのだろうか、それともぜいたく? 虫は仕方ないと諦められるのに、はじめから種をとりのぞく暴挙には耐えられない。(ゆ)


へんしゅうこうきのこうき

 暴挙、と書いて書き過ぎかもしれない、と後日思う。でも割った時の空洞の衝撃はなんだ。検証のため、翌日ハワイ産2個(熟れたのと青いの)、フィリピン産1個を吉祥寺の高級スーパー、普通の八百屋などで買ってみた。みな種がついていた。種があれば安心するのか、自分になんだかなぁ、である。もちろん遺伝子組み替えの表示はない。ネットで調べると、石垣珊瑚というパパイヤは2008年からの新品種で種無しだそうだ。今回は大きく目に見えたから、びっくりできた、ということなのかもしれない。ほんとに、なんだかなぁ、である。

 昔から種無しブドウはあった。このごろは種無し柿も。最初は自然交配、人工交配などでできたのだろうが、この頃はすべて遺伝子操作なのだろうか、いや〜な気がどうしてもしてしまう。それと私たちの時代の不妊の多さも、何か関係がある気がするのは、もう論理の飛躍ではないだろう。この間頂いた種無し柿は、種の名残が、果肉についていた。先月買った北海道産のかぼちゃは、種が果肉の中に突然変異のように、あった。このごろ、自分の老婆心は止められないことがわかった。
(ゆ)
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 2013.08  
  この夏は、寂しい夏となった。今朝はそれほど暑くなく、いい風が吹いてきもちいいのに、「いない」ということに圧倒されている。どこかに「いる」という安心感とは全く違うものだ。会えなくても「いる」ことで、すっかりのほほんと忘れていられる。ところが「いなく」なると、その「いない」感は余りにも強烈で、うちのめされる自分を感じるばかりだ。

 ひとの人生は長くて、いろんな出会いがあるが、今の自分を形成してきた人たちの数はそれほど多くない(と思う)。春から夏にかけて、心の慈父たちが次々と亡くなった。それぞれ強烈な個性を放ち、ひとすじなわではいかない、自由な方たちであった。それでもこちらがピュアになれれば、大きな大きな心で受けとめてくださった。ありがとう、としか言いようがない。伝説の精神科医、加藤清先生。トランスパーソナル心理学を日本に紹介した、吉福伸逸さん。そして7月に亡くなられた、中国武術の松田隆智先生。この人たちがいたから、私はいい年なのに、まだ娘気分でいられたのだった。これからはますます心して精進していかねばならないだろう。いつかお会いできる日を楽しみに、、、。(ゆ)
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  2013.06  ^
 五月の風が好きだ。”いい風”に吹かれていると、それだけで充分だ。南北に通風できるように小さなアパートを工夫し、ただ風が通りぬけるのを感じている。

 整体の先生は、常に自分を観るように教えてくれる。からだの外にばかり目を向けるのではなく、内の気の動きをただ観ること。きめこまかに、みること。自然に礼儀をつくすこと、の意味が少しずつ腑に落ちてくる。自然に、というのは、自分に、も含まれることを。

 私は私に礼を尽くしてきただろうか。答えは、否。だいぶ粗末に扱ってきた。それでも若くて生命力があったから、無自覚でやってこれたが、そろそろやめたがいい。自分に粗末なのは、ひとにも失礼だったということだ。ひとしく、ごめんなさい、と言いたい。そんな私にも、いい風はあたり、太陽は照らしてくれる。今日は、ありがたくて、涙がでそうな日だった、、、。(ゆ)
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 2013.04  
 近頃印象に残ったお客さん。40代くらいのきれいな人。夕方、「昼間ここにあった『毒婦』、どこにいきましたか?」と聞かれた。あ、二度来てくれたんだと思い、探して渡した。何も言わずに帰ったけれど、どんなふうに読んだのだろうか。

 北原みのりによる木島佳苗の裁判記録。連続不審死で去年の4月に死刑判決を受けた人である。今は控訴中なのだろうか。ナワプラサード的な本ではないが、仕入れ担当としてはどうも気になり、並べておいた。だいたい女性が犯人というと、美人なら猟奇的に扱われ、そうでないなら徹底的にこき下ろされる。木島佳苗は後者である。こき下ろした男の人たちはもう忘れているかもしれないが、女の人の意識には沈殿して澱(おり)が残る気がする。友人たちに聞いてみると、「あぁ、、」と言ったまま、黙る人が多い。ぽつぽつ、よく分かんないよね、とか、北海道の人だったんだよね、とか言う。男女の交情に関係するせいだろう、口が重くなる。これは何だろう。女性は通低意識でみなつながっているのか? 北原みのりも終始分からないと書いていた。分からないとは何だろう、少し分かるから、でも手をくだすまでは分からないということなのか? もう一度本を仕入れようか、迷っている。(ゆ)
 
2013.02  
 心を浮き立たせるもの。冬の光、その落とす影。雲の変化、左から右へなびくようす。冷たい風、骨身に沁みて、でもシャキッともする。梅のつぼみが少しずつふくらむようす、毎年、律儀だなぁ、けなげだなぁと思う。小さな孫の笑顔、これは何ものにも代えがたいな、ただただうれしい。

 心を悲しませるもの。さまざまな陰惨な事件とその報道。真実を覆い隠すための嘘、大嘘、それに(自分も含めて)コロッとだまされること。小さないきちがい、大きな誤解。

 こうしてみると、人間界のことしか私は嘆いてないな.... 身は半分は自然界に置いて、同時に人間界で努力を続けるのがやはり人の道、ということなのかしらね? (ゆ)
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この文章は紙版「ほびっと村学校かわらばん」の編集後記です。ナワプラサードの高橋ゆりこによって書かれました。

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