nawa prasad 2015


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 2015.12  
 小さいときから、どっちつかずだった。勉強ができる子には反発と退屈を覚え、できない子には同情するけどなんだかもう少ししっかりしろよ、のきもち。動物にも鳥にもなれないイソップ物語のこうもりに、いやにシンパシーを感じた。今でもそれはある。下品と上品。貧乏と金持ち。女と男。下品と貧乏と女のみかたです、という義侠心はあるが、私はどの当事者なんだ???中品と貧乏と女か?

 ひとは相手によって、ひとが変わる。これは大きくなって学んだことだ。娘たちにとっては、まだお母さん。孫たちにとってはもうおばあさん。年老いた母にとっては、まだ嫁に行くかもしれないという冗談を言える娘。これを言われたときは、もちろんあっはっはと笑い飛ばしたが、ほんの少し傷ついたりして。昔の相方にとっては、、、それぞれに聞いてください。仕事仲間にとっては、仕事仲間。仲のいい友人たちにとっては、きっと気のおけない相手。

 どれがいちばん自分らしいか、と考えたら、自然にいられる相手かなぁ。なんのよどみもなく。そんなことは滅多にないから、あったときは、たいへんな至福がオトズレル。あ、そうそう、神さまにとっては? どんな自分だろう。自分のかたちがすでにない自分、、、そうなりたいなぁ、どっちつかず、もうやめたいもん。(ゆ)

 
  2015.10  
 先月号の表紙のリード文で、「日本ではとうとうフェミニズムは定着しなかった」と書いたところ、何人かから、あれはどういう意味?と聞かれた。

 小田まゆみさんが、あんなにたくさん、美しくふくよかな女神たちを描いた。ニキ・ド・サンファルが、風船のように膨らんだポップな女たち、ナナの像をつくった。(今ちょうど国立新美術館でやっています。12月14日まで)。あるいは相似象(カタカムナ)の宇野多美恵先生がしつこくしつこく、サヌキとアワのサトリを説いた。男も女もけっきょくアワを鍛えることが大切だ、と(この本はすでに絶版)。これらのことに私は感動していたのである。みな、やせた女の人たちだった。男性優位の社会の中で、おおいなる女性性を解放していったのだった。これらのすさまじい努力とその美しい開花を、もっともっと知ってほしい。

 今の日本は、そんな根源的なフェミニズムはどこかにぶっとんでしまった。女も男も非正規雇用の受難の時代だ。一億総活躍できる社会などとバカなことしか言えない首相の舵のもと、日本自体がどこへ向かうかわからない。サバイバル自体が人生の大義になった。いいもわるいもない。こんなときに立ち顕れてくる女神像にこそ私は会いたい。日本の女たちはたくましく無自覚なままだ。大変な時代こそ、徳が磨かれるチャンスなのだから、その根源の生命力に気づき、手をとりあってすすんでいけますように!〜〜これで答えになっただろうか?(ゆ)

 
 2015.08  
  上の娘が孫2人を連れて朝から遊びに来た。置いてある古いおもちゃを出して、大騒ぎ。賑やかで楽しいひとときだ。今日は昼ご飯を食べて、早く帰る。娘がこどもたちを自転車に乗せたところで、鳥のひなの死骸を見つけた。家の前の木の巣から落ちたのだろう。蟻が群がっている。もうすでにぺちゃんこで中身がなく、くちばしばかりが大きく見える。「かわいそうに、」と口にだすと、娘は子どもたちにこう説明した。「とりさんのしがいはありさんが食べてくれているよ。だからぜんぶなくなっちゃうんだよ。でもまた、とりさんはどこかで生まれるんだよ。」5歳の上の男の子が「また生まれるの?」と聞く。「そうだよ、すべてはくりかえしなんだよ。」
、、、、
 上の娘は子育てでたいへん忙しい。幼稚園が夏休みに入り、毎日ばてたばてたと言いながらも、こどもたちを精力的に遊ばせている。そのさなかの「すべてはくりかえしなんだよ」というフレーズ。私はそんな教育を娘にしたのだろうか? それとも娘の生活のなかの実感なのだろうか? 暑い暑い夏の日。私はくらくらしながら、自転車で去っていく娘とちびさんたちを見送ったのだった。(ゆ)
 
   
   
2015.06  
  6月20日にほびっと村学校にいらっしゃるニチャン・リンポチェ。先日ご自宅での講義に伺ったときのこと。講座の最後に、遠くを見つめるような目で、「我があると思うのは、私たちの貧しさですよ」と言われた。えっ、、すごい発言かも!?と感動してたら、さらに「私たちのもろかさですよ。 」とつけくわえられた。モロカサ? リンポチェは日本語が達者とは言えない、、から、きっと脆さと愚かさを一緒になさったのだろうが、言い得て妙であった。

 貧しさ、脆さ、愚かさである。人間のありようである。釈迦が仏法を発見なさったとき、智慧と方便 を説明なさったとき、どれほどの歓喜が世界にあったかを思うと、今はとてもざんねんな時代だ。だがきっとこういう時こそ、よ〜くものを見、考えるチャンスなのかもしれない。勉強が必要だ。人と交わることもその一端、世界は広い、希望は捨てまい。(ゆ)

 



 小さいとき、家は賄いつきの大きな下宿屋さんだった。私と兄は、その大きな階段の手すりをしゃーっと滑り降りたり、階段を一段ずつお尻でとんとん滑ったりして遊んだ。ある時祖母がその真似をした。そして腰を打って怪我をした。私はとても不思議だった。大人なのに、子どもの私のマネをした?? 

 でも今は分かる。人を使う、女将のような立場の人も、心の中に小さな子どもはいつまでもいる。青年期中年期は人生は外に向くから出にくいが、年をとるとその小さな子どもの出番が少しずつ増えるのだ。なんだか無邪気に遊んでもOKみたいに、天から言われるのかも? 

 私の母はその祖母のその時より、もう20も上の90才だが、まったく子どもだ。髪も私に洗ってもらうし、ソージもしない。ただふざける。いい子だが赤ちゃんすぎる。時々大人に戻って、びっくりさせるが。痴呆とか認知症という言葉より、それが自然なのかも、と思うこの頃。(ゆ)
 
 2015.04  
 わたしの生活。/愛の生活。自然に湧いてくる優しさ。皮肉なきもちが少ないのはたぶんいいことだろう。/仏教的生活。自愛も含めて、生き物すべてに愛と憐れみが向く。みんな、ごくろうさま、だよ。/孤独の生活。ひとり灯を小さくともして歩んでいる。寂しいが、ひとりの充実感もある。/社会生活。それぞれに役目がある。自分の仕事をとおして、結局ひとのために生きている。/社交生活。ひととの交流の喜びがある。特にこの時代に分断され、小さく貶められている自分が、ひとと心からの会話をちょっとしただけで、生きかえる。ひととの交流がこれほど大切な時代になったんだな、と思う。/魂の生活。ひとつひとつの現象にさざ波のように呼応して、私の魂はつくられていく。無意識かもしれないが、大きな波にのって、どこか初めての場所に連れられていく。

 私は生まれたから、死んで行くのだが、その道行きのなかで、そうじゃないものも少し発見した。大切なものはある。家族や周囲のひとたち。道に咲く花。今の季節なら桜霞み。それらも変わっていくが、だからといって大切にしないわけにはいかない。好きなものは嫌いになれない。

 ああ、もう1個あった、私のだらしない生活。ひたすら眠ったり、ぼぉ〜っとテレビを見たり、1日3個計画して、1個しかできないとか、いや半個か、ゼロ。その自己嫌悪も含めて、仏さま、許してね。(ゆ)
 
 2015.02  
 私は自分のことがわからない。平和主義者で少し仏教徒で、少しリベラル? 理想が高い(?)分、自分の現実はそうじゃないから、強くない。冗談が好きで、でも真面目なとこもある。保守的なとこもある。自分の無力さにいろんなことを諦めてもいる。

 今回の人質事件はきつかった、、、。刻々と変わる状況に、心が痛んだ。湯川さんのことは特に心が痛んだ。後藤さんは少なくても皆が命乞いするような人だ。だが、世の中はそうではない人の方がずっと多いのだ、、。個々の現実が織り込まれたこのややこしい世界の中で、いろんな役割を背負わされてしまうことがある。ひとりひとりが耐えていくしかないのだが、それでも心が痛んだひとに対しては、花をたむけようと思う。(1.31 ゆ)

 後藤さん、湯川さんのふたりを悼むことになってしまいました。残念です。いろいろおつらい思いをなさっているご家族、みなさまに追悼のきもちを捧げます。平和のきもちも祈念いたします。(2.1 ゆ)

この文章は紙版「ほびっと村学校かわらばん」の編集後記です。ナワプラサードの高橋ゆりこによって書かれました。

 
 
 

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